使徒言行録一覧

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「真実は勝つ」使徒26:24-32 中村吉基

今週10月31日は宗教改革記念日、ルターの「95箇条の提題」を記念する日であるが、もう1人の旗手ジャン・カルヴァンの教会で用いられた「ジュネーブ詩編歌」を中心に礼拝を構成している。現代はカトリックとプロテスタントがかつてないほど大きく歩み寄っていて、宗教改革記念日を憶える教会が減っているともきくが、いつでも原点に帰る必要がある。今日の箇所パウロはアグリッパ王の前で弁明している。全身全霊で真実で理にかなったことを話したパウロは無罪を認められたが、ローマに渡り、そこでまた2年をすごす。その間各地の信徒へ手紙を書き「キリストの十字架の死によって神と人間は和解したのだ」と送る。かつてキリスト者を迫害すしていたが、復活のイエスに愛真実を知った。キリストの十字架を心に信じる信仰が有れば神は救ってくださる、パウロの中でこの福音は大きな喜びに変えられて行った。それと同じ信仰の喜びにルターやカルヴァンも気づき、プロテスタント教会に受け継がれている。パウロがどういう最期だったのかよくわかっていないが、パウロは知っていた、「真実は勝つ」と。

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「使徒言行録29章」使徒28:16-31 中村吉基

使徒言行録は聖霊言行録という人もあるくらい聖霊の働きが人や教会を働かせている。ペンテコステの日祈りの家にいた人は皆聖霊を受け、イエスキリストのことを伝えた。酔っていると思われもしたが、3000人の人が洗礼を受けた。原始キリスト教は苦難の連続であった。投獄や鞭打ち、死ぬような目にあうことも度々とパウロは書いている。それを乗り越える力を与えたのは聖霊であろう。当時としては驚きであった外国人伝道、ペトロにとっても抵抗があったものだが、神に咎められコルネリオに洗礼を授ける。パウロも3回もの外国人伝道をする。外国人伝道をすればするほどユダヤ人たちからは疎まれひどい目にあったが、福音のメッセージはすべての人を救いに導くということを伝えたかった。使徒言行録は28章で終わるが、使徒言行録」の最後に記されている言葉「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」のようにキリスト教はそこから2000年、神の国を延べ伝えてきた。私たちの教会もまたこの29章に連なり描いていかなければならない

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「元気を出しなさい」使徒27:21-26 中村吉基

パウロがいつどこで亡くなったかはわかっていないが、3回の伝道旅行後エルサレムで捕縛され裁判のためローマに送られた。今日の箇所はそのローマへの船でのことである。暴風で立ち往生している船の中で人々は長いこと食事をとっていなかったが、その中でパウロは人々に「元気を出しなさい」と励ます。その理由として、昨夜神からの天使がそばにたって「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」と語ったのだという。我々は祈りが「聞かれるか」「聞かれないか」を知らないが、この時のパウロは神に見放されていないということを確信している。「もうダメだ」と絶望した時に信仰によって人びとを励まし続けることができるか、私たちは望みなき時にも神を信じ続けることはできるのかが問われている。

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「あなたはそれでも……?」 使徒15:1-12 中村吉基

当初ユダヤ人だけで構成されていた教会は、徐々に異邦人のキリスト者が増えていった。今日の箇所、アンティオキアの教会でも同様であったが、そこで一部のユダヤ人が「割礼をうけなければあなたがたは救われない」と教え始める。しかしそれは福音のメッセージとは違う。パウロとバルナバはこの件につい激しい論争をするが、その判断をエルサレムに託す。エルサレムにはペトロもいた。すでにコルネリウスらに伝道したことですっかり外国人への見方がかわっていペトロは「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じこと」と主張する。人間が努力をして救いを得ることはできない。私たちが救われるには神が差し伸べてくださる御手につながることである。救いは一方的な神の恵み、神の「無条件」の愛によるものなのである。

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「受け容れる人、拒む人」使徒13:44-52 中村吉基

パウロとバルナバの教えは異邦人には評判がよくたくさんの人に受け入れられたが、「選ばれた民族」と信じていたユダヤ人からは反対された。しかしパウロとバルナバは勇敢に語り、わたしたちは異邦人のほうに行く」と宣言する。「ただ神にのみ栄光を」とは宗教改革者ジャン・カルヴァンが大切にした言葉である。それは神によって救われた生活を送る、神とともに生きるということである。今日の箇所の最後は「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」とある。我々は「喜びと聖霊」に満たされているだろうか?自分のため、または自分の利益のためにとなりがちであるが、そうではなく「ただ神にのみ栄光を」、神の愛の中で生きるのである。

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「聖霊を受けよう」使徒10:44-48 中村吉基

明治初期のキリスト教の教会をめぐる記録には「聖霊に満ちた」経験がいくつかある。J・H・バラ宣教師の夢やそれに続くリバイバル、池袋清風の祈りなどである。今日の箇所でも、コルネリウスの家で話していたペトロは、そこにいた人は皆聖霊が降ったことに驚いた。ユダヤ人以外にも降ったからである。そこでペトロは神のみ心を悟った。これによりペトロは自分で作っていた律法を捨てるという劇的な変化をとげる。この教会にも働いてくださってる。聖霊の働きの祈りは、食事や睡眠のようになっていないだろうか?主イエスが来てくださって、私の人生を変えてくださることを信じて祈るならば、聖霊は来てくださる。それを求めて真剣に祈りを合わせたい。

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「行動する人、しない人」使徒10:1−16 中村吉基

使徒言行録10章に出てくるコルネリウスは異邦人の百人隊長で、ユダヤ教に改宗こそしていないが信仰心あつい人であった。ある日彼の前に現れた天使に「ヤッファにいるシモン・ペトロをを招きなさい」と言われ、すぐに2人の召使と信仰心の厚い兵士を送る。一方ペトロの前にも天使が現れ、ユダヤの律法で禁じられているものを屠って食べるように命じるが「できない」と断る。すると「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声がする。コルネリウスとペトロは行動が対照的である。ペトロはコルネリウスとの交流で神の声を悟る。私たちはペトロのように自分の作った律法で最初から結果を決めつけて行動に移さないことがないだろうか?私たちは神に命じられた時にすぐに立ち上がることができるか問われている。

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「イエスが選んだ器」使徒9:1−19前半 中村吉基

サウロ(後のパウロ)はユダヤ教の指導者であるのと同時に主イエスを信じる人びとを迫害していた。それほど当時のキリスト教徒の影響は大きかったのである。サウロは自分のしていることは正しいと信じていたが、ダマスコの旅の途中に倒れ「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そして起きて町に入れと言われる。そのころダマスコではアナニアがサウロを訪れるように主イエスに言われる。自分の行動を自分で決めてると私たちも思いがちだが、キリスト者は主イエスだったらどうするかを考え従うべきである。アナニアは主イエスに「サウロは私が選んだ器」と言われる。聖書では人間を器によく例えるが、見た目が大切なのではなく何を入れるかが大切なのである。今日の箇所ではサウロもアナニアも対応はそれぞれであるが、名前を呼ばれてる。主イエスは私たちの名前も呼んで、「わたしはここにおります」という応答を待っておられる

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「恐れるな。語り続けよ」使徒18:1-11 中村吉基

アテネで伝道がうまくいかなかったパウロはコリントにいたユダヤ人への宣教もうまくいかない。イエスをメシアと認めないユダヤ人に口汚く罵られ服の塵を振り払って異邦人へ伝道することを決める。異邦人の人々に福音は受け入れられたが同胞のユダヤ人とは膠着状態にあったパウロは苦しかったはずである。そんな時神はパウロに「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」と語りかける。これは神が「共にいてくださる」ということである。今日は平和聖日、第2次大戦中キリスト教会は国策によって合同したが、厳しい弾圧にあった教会もあり、逮捕・検挙された牧師もたくさんいた。教団には、そんな彼らを見捨てた歴史がある。戦後鈴木正久によって、正しい判断ではなかったという戦責告白を公にした。沈黙は罪である。私たちはペトロやパウロの時代に始まって連綿と「平和の福音」を告げ知らせてきた教会なのである。

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「福音を告げ知らせながら」使徒8:1-8 中村吉基

今日の箇所にはサウロとフィリポという2人がでてくる。サウロはキリスト者を迫害しているユダヤ教の指導者、フィリポは選ばれた7人の執事のうちのひとりである。サウロは後のパウロ、彼の話は、誰でもする失敗、または悪事をしても自分のもとに悔い改めて戻ってきた者に力を与えるという神の力を証しである。一方サマリアでは迫害から命からがら逃げたフィリポが困難な状況下で生きていたサマリア人に福音宣教をしていた。ユダヤ人から忌み嫌われていた地で貧しくされ福音の教えを必要としている人びとがたくさんいたのである。ステファノの死を乗り越えて、自身も迫害されながら、福音を宣べ伝える事ができたのか?それは信仰の力であり、現代社会を生きているすべてのキリスト者が目指すべき姿である。社会の片隅で心が擦り切れそうになっている人たちに寄り添いなさいという神の促しなのである。