「この人たち以上に」ヨハネ21:15-25 中村吉基

イザヤ書62:1-5;ヨハネによる福音書21:15-25

今日は午後から定期教会総会が開かれます。この一年の間に神さまからたくさんの恵みを受けたことに感謝しつつ、また新たな一年を、教会という「舟」に乗って共に今日ここから歩み出したいと思うのです。今日の箇所では、主イエスを「愛しているか」と何度も問われたペトロが登場します。私たちはこの物語をペトロ個人が主から尋ねられたというだけで読み過ごすのではなく、私たちの教会も、そして私たち自身も主イエスから「わたしを愛しているか」と問われています。そのことを念頭に置いて、今日の主の言葉に聴きたいと思うのです。

先週は、魚が漁れないと思われていたティベリアス湖で、主イエスが「舟の右側に網を打ちなさい」と言われた一言で、網を引き上げられないほどの大漁となり、その後湖畔において主イエスが備えてくださった食事を弟子たちと共にするという物語に聴きました。15節に「食事が終わると」と記されてあるのは、それから間も無くの話だったことを示しています。

ここでは主イエスとペトロの会話が記されています。

主は、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われました。

すでに親しい間柄であるはずの主イエスとペトロです。主が自ら命名された「ペトロ」ではなく、「ヨハネの子シモン」と呼びかけておられます。シモンはペトロが主の弟子となるまで名乗っていた元の名前です。この時、ペトロたちは出身地ガリラヤに帰っていました。ですから漁師の仕事にも戻っていたわけですが、主イエスが畏まったかのように「ヨハネの子シモン」と呼ばれたのです。これは、すでに家族や親族、かつてしがらみがあったところに戻っていたペトロにそれでも「わたしを愛しているか」と問われる主イエスでした。3月3日の礼拝でこのペトロの信仰告白の言葉(ヨハネ6:68)についてお話ししました。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

このペトロの言葉を主は憶えておられたのでしょう。だから彼にあえて尋ねてみたのです。

ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

このような会話がこの15節だけでなく、続く16節、17節に3回も繰り返されるのです。

15節に「この人たち以上に」とあります。「他の弟子たちにもまさってペトロは主を愛しているか」、あるいはペトロが「仲間の弟子たちを愛する以上に主イエスを愛しているか」という意味にもとれます。さらに「これらの人々」というところを「これらのもの」と読むこともできますから、自分の家族、自分の仕事、毎日の食べ物のこと、それ以上に主を愛しているか、と問い、尋ねています。

主イエスのことを愛することは、キリスト者にとっても、牧会者にとっても、そして教会にとって最も大切なことです。ペトロは弟子たちのリーダーであり、ひいてはこの後福音宣教に出て、牧会者として信者たちの牧会(信仰指導や世話をする)に当たりました。牧会をするに当たって最も大切なことは「主を愛すること」です。この「愛する」というところを「心を寄せる」(岩波訳)とか「大切にする」(本田訳)と訳している聖書があります。先月の休暇の際に、私は牧会者としての諸先輩方の教会に伺って礼拝に出席して参りましたが、私が心を打たれる説教は説教者がどれほど主イエスを愛しているかということが手に取るようにわかる説教です。「愛する」という言葉を使わなくても、その愛が裏打ちされたような説教には心が動かされるものです。主を愛することなしに信仰は保たれませんし、教会も存続できません。もちろん牧会者の働きもできなくなることでしょう。

主は「小羊を飼いなさい」「羊の世話をしなさい」「羊を飼いなさい」など表現は多少違うものの、そこで主が仰せになっている内容は変わりありません。そして主イエスのこのご委託に応える営みが初代教会以来連綿と続けられてキリスト教会は今日に至っているのです。牧会という言葉は一人一人への「魂への配慮」と言われます。これからどのような時代が来るのかわかりません。最近AI、チャットGPTで礼拝説教を作成する実験をしている人たちがいましたが、幸か不幸かあまり芳しい結果ではないようです。しかし教会の営みである、この「魂への配慮」は決して変わることがないでしょう。

ここで一つ触れておかなければならないことがあります。「愛する」という言葉、ここでは2つのギリシア語が使われています。まず15節に主イエスがペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」とありますが、ここでの「愛する」とは「アガパオー」という神の愛を表す言葉を使っているのに対して、ペトロの「愛している」という返答には「フィレオー」という知的なものを愛するという言葉が用いられています。この3回にもわたる主イエスの問いを少々くどいように思われる方があるかもしれません。2度目に問われた時にもペトロは「フィレオー」で答えていますので、主は少し言葉を変えて「小羊を飼いなさい」から「わたしの羊の世話をしなさい」と再度ペトロに勧めているのです。主を愛することなしに信仰生活はおろか、教会の存続すらできないのです。今日の記事の場面にはもちろん教会は出てきませんが、この21章が書かれた時には、すでに教会はありました。おそらく主を愛するという問題がこの時代の教会に突きつけられていたことでしょう。

主イエスはすべてをお見通しでした。主はある時、このように言われました。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:37-39)

羊の「世話をしなさい」とは、ただ飼うだけではなくて、毛を刈ったり、外敵などの危険から守ったり、さらに手のかかる仕事です。主イエスの弟子たちだけでなく、他の人々にも心を込めて「魂への配慮」をしなさいというのです。

三度目に主はペトロに問われます。17節です。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

主イエスはこれまでペトロが用いていた「愛している(フィレオー)」で問いました。イエス自身がペトロの言葉を捉えています。この時、ペトロが悲しみながら「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えています。主から3回も問われてペトロは悲しくなったのでしょうか。けれども主イエスが十字架につけられる前に、ペトロは3度主を否定しています。彼の悲しみはそれを思い出してのことでしょう。だからこそ今度はそのペトロに3度でも何度でも肯定してほしい、そのような機会を主が与えてくださったのです!

そしてこの後、18節のところからペトロの殉教について触れています。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と主イエスが語られて、それは「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして」と説明がなされます。「はっきり言っておく」と主が言われる時には、大切なことを伝える際に使われます。「確かに(アーメン、アーメン)あなたに言う」。ペトロが若い時に、行きたいところに行っていたとは、彼が信奉する先生や指導者がいなかったということです。さまよっていたのです。そんな時に主イエスに出会いました。そして彼の最期については聖書では伝えられていませんが、伝承ではローマで逆さ十字にかけられて、殉教を遂げているということです。「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」というのはそのことを示しているのでしょう。そして主はペトロに言われました。「わたしに従いなさい」。これは主と同じ十字架への道を歩むことを意味していました。しかしそのような惨たらしい十字架の死も神に栄光を帰すのだというのです。

さて、もう一人、登場するのがイエスの愛しておられた弟子(ゼべダイの子ヨハネと考えられています)でした。彼もまた主イエスに従ってきていました。20節に「あの夕食の時」という言葉がありますが、いわゆる「最後の晩餐」の際に彼はイエスに最も近いところにいて、「主よ、裏切るのはだれですか」と言いました。ペトロは心配になりました。自分のこともヨハネのことも……どんな最後を遂げるのか、ということでした。主イエスはこう言われました。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」。23節にはヨハネは死なないという噂が広まったと記されています。この21章はヨハネの弟子であり、エフェソ教会のメンバーだった人が記したといわれていることは先週お話ししましたが、当時のエフェソ教会にはこのような噂があったようです。そしてヨハネは実際に長生きしたと伝えられていますが、23節で「イエスは、彼は死なないと言われたのではない」と記されているのはその噂を否定するというようなことでした。

しかし、21章の著者は、この24節で「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」とヨハネのことを説明しています。この人もまた主イエスについて真実の証しをした人として用いられたのです。そして「主イエスを証言する」ということは、実際にイエスを知っていた弟子たちに始まり、言葉が連綿と伝えられて、2000年の時を経てきました。私たちも主の証し人です。「この人たち以上に」主を愛した証し人なくして教会は存続しませんでした。私たちも教会を形づくる一人一人、主が自分に何をしてくださったか、私たちが見たこと、聞いたこと(ヨハネ3:32)を伝え続けていきましょう。