ペトロ一覧

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「この人たち以上に」ヨハネ21:15-25 中村吉基

先週の続き、ティベリアス湖畔で食事をした後、主イエスとペトロの会話である。主はペトロではなくヨハネの子シモンと呼び、多少言い方の違いはあるが自分を愛しているかを何回も問う。ペトロは聞かれるたびに「愛している」と答える、そうするとまた多少言い方は違うが「私の子羊を飼いなさい」と言われる。何度も聞かれるのでペトロは悲しくなる。主イエスを愛することはキリスト者にとっても牧会においても最も大切なことである。主を愛することなしに信仰生活はおろか、教会の存続すらできない。牧会とは「魂への配慮」とも言われる。ペトロは弟子たちのリーダーで福音宣教にも出て、信者たちの牧会にもあたった。今日の箇所ではそのペトロの殉教についても触れている。またもう一人の弟子もでてくる。その弟子のついてのイエスの言葉の誤解をときながら、証しが真実であることを書いている。実際にイエスを知っていた弟子たちに始まり2000年の時を経て「主イエスを証言する」ことが伝えられてきた。私たちも主の証人である。

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「左側ではなく、右側に」ヨハネ21:1-14 中村吉基

今日の箇所は復活された主イエスがトマスにお会いになった後のことである。場所はティベリアス湖、主イエスの活動の拠点でもあった。夜明けに岸にたっていた主のことを漁をしていたペトロ達は誰だかわからなかったが「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と言われ実行すると「魚があまり多くて、引き上がることができなかった」。この「引き上がる」は神や主イエスがご自身のもとに引き寄せてくださるという言葉と同じである。自身の力ではなく、主イエスを通して多くの魚を引き寄せることできた。自分の経験を信じ「そんな無駄なことやってもダメ」と諦めず、見知らぬ男(主イエス)のいう事に賭けてみたことは、ひとつの信仰の態度と言える。彼らが陸にあがると炭火がおこしてあり、魚とパンが用意されていた。そこに獲れた魚ももってくるよう主はいわれた。聖餐を想起させ心が温まる出来事である。またこの出来事はペトロの経験が覆される出来事であったが、彼はそれを受け容れた。自分の経験や価値観を過信するあまりそれが正しさだと思い行動してしまうが、今日のエピソードは神の恵みの力によって相対化され最後には崩された人間たちの物語であり、主イエスが新しい生き方へとペトロたちを招いているである。

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「絶望のその先に」ヨハネ20:19~31 中村吉基

イエスの十字架刑後、ユダヤ人を恐れて鍵をかけ家にこもっていた弟子たちの真ん中にイエスが立ち、手とわき腹とをお見せになり、「あなたがたに平和があるように」と言われた。しかし弟子たちはそれがイエスであるとはすぐにはわからない。どうも違う姿であったようである。そこでイエスがおっしゃった「あなたがたに平和があるように」とはヨハネ14章の言葉と関係があり、これから聖霊が到来するのだという宣言でもある。さて。その場にいなかったトマスは躓いたままだった。しかしイエスはそのトマスのところにも行き、傷を触らせた。じかに主イエスの傷跡にふれたトマスは主イエスが生きておられることを確信した。イエスが十字架刑になったことで、固まってしまった人びとの心をイエスが愛とゆるしに満ちた言葉で溶かしていく。復活は絶望的になっていた人びとが再生する道を与えた。家に閉じこもっていた弟子たちは外にでて教えを宣べ伝え、多くの弟子たちが最後には殉教することもいとわなくなっていた。これが神の愛の力である。そして私たちもこの神の愛を知ることによって、包まれることによって変わることができるのである。

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「復活への希望」ヨハネ20:1−9 中村吉基

イエスがイスラエルの王となったら平和な生活ができると信じ、全てをなげうって従って来た弟子たちは、十字架刑で自分たちの救い主が殺されてしまったことを到底受け入れられなかった。しかし自分達だけが救われて平穏な生活を手に入れるというのは都合のいい自己中心的な考えではないだろうか?最後の晩餐の席で主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われた。自分の都合の良いようにでなく、イエスがなさったように誰も目を向けようとしないところで生きる人びとを愛する、それを一番大切にして弟子たちが新しい歩みを始めたのが復活の出来事である。マグダラのマリアが安息日を前に夜明けに墓へ行ったが中には何もなかった。マリア達は「遺体が持ちされた」と驚き、急いでペトロ達に知らせた。見に来た彼らも空の墓をみて「持ち去られた」と驚いたが、生前のイエスの「3日後によみがえる」という言葉を思い出し、最後にはこの出来事を神のみわざとして信じた。しかし理解はできていなかった。ヨハネ福音書ではこの「空の墓」を「希望」としている。イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と語っている。このように私たちに語りかけ復活の約束をしてくださる。イースターの朝、空の墓から希望がもたらされたこと、死がすべての終わりではなくその先には復活への希望があることが明らかになったのである。

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「最初の弟子たち」ヨハネ1:35−52 中村吉基

洗礼者ヨハネが「神の子羊」と言うこの方どんな方か、2人の弟子が主イエスを追う。するとイエスが振り返って「何を求めているのか」と尋ねる。そしてそのまま2人は、ほとんど面識のないイエスに従ってきた。次はペトロである。後に弟子たちのリーダー、教会の指導者となるが、彼の兄弟アンデレから「わたしたちはメシアに出会った」ときき、イエスのもとに馳せ参じた。その翌日はフィリポとナタナエルである。まず「わたしに従いなさい」とフィリポが招かれ「モーセが律法に記し、預言者たちも書いてある方に出会った」とナタナエルに伝える。聖書をよく知っているナタナエルは「ナザレか。ら何か良いものが出るだろうか」と答えるが、イエスと会い「あなたは神の子です」と告白する。今日の箇所だけではないが聖書の物語だけでは人々が主イエスにあった時の輝きやその言葉の力強さは伝わりにくい。私たちは「知らないもの」に対して恐怖を覚えるが主との出会うことによってそれはそれぞれの中で平安な出来事に変えられていくのである。

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「使徒言行録29章」使徒28:16-31 中村吉基

使徒言行録は聖霊言行録という人もあるくらい聖霊の働きが人や教会を働かせている。ペンテコステの日祈りの家にいた人は皆聖霊を受け、イエスキリストのことを伝えた。酔っていると思われもしたが、3000人の人が洗礼を受けた。原始キリスト教は苦難の連続であった。投獄や鞭打ち、死ぬような目にあうことも度々とパウロは書いている。それを乗り越える力を与えたのは聖霊であろう。当時としては驚きであった外国人伝道、ペトロにとっても抵抗があったものだが、神に咎められコルネリオに洗礼を授ける。パウロも3回もの外国人伝道をする。外国人伝道をすればするほどユダヤ人たちからは疎まれひどい目にあったが、福音のメッセージはすべての人を救いに導くということを伝えたかった。使徒言行録は28章で終わるが、使徒言行録」の最後に記されている言葉「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」のようにキリスト教はそこから2000年、神の国を延べ伝えてきた。私たちの教会もまたこの29章に連なり描いていかなければならない

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「あなたはそれでも……?」 使徒15:1-12 中村吉基

当初ユダヤ人だけで構成されていた教会は、徐々に異邦人のキリスト者が増えていった。今日の箇所、アンティオキアの教会でも同様であったが、そこで一部のユダヤ人が「割礼をうけなければあなたがたは救われない」と教え始める。しかしそれは福音のメッセージとは違う。パウロとバルナバはこの件につい激しい論争をするが、その判断をエルサレムに託す。エルサレムにはペトロもいた。すでにコルネリウスらに伝道したことですっかり外国人への見方がかわっていペトロは「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じこと」と主張する。人間が努力をして救いを得ることはできない。私たちが救われるには神が差し伸べてくださる御手につながることである。救いは一方的な神の恵み、神の「無条件」の愛によるものなのである。

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「聖霊を受けよう」使徒10:44-48 中村吉基

明治初期のキリスト教の教会をめぐる記録には「聖霊に満ちた」経験がいくつかある。J・H・バラ宣教師の夢やそれに続くリバイバル、池袋清風の祈りなどである。今日の箇所でも、コルネリウスの家で話していたペトロは、そこにいた人は皆聖霊が降ったことに驚いた。ユダヤ人以外にも降ったからである。そこでペトロは神のみ心を悟った。これによりペトロは自分で作っていた律法を捨てるという劇的な変化をとげる。この教会にも働いてくださってる。聖霊の働きの祈りは、食事や睡眠のようになっていないだろうか?主イエスが来てくださって、私の人生を変えてくださることを信じて祈るならば、聖霊は来てくださる。それを求めて真剣に祈りを合わせたい。

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「行動する人、しない人」使徒10:1−16 中村吉基

使徒言行録10章に出てくるコルネリウスは異邦人の百人隊長で、ユダヤ教に改宗こそしていないが信仰心あつい人であった。ある日彼の前に現れた天使に「ヤッファにいるシモン・ペトロをを招きなさい」と言われ、すぐに2人の召使と信仰心の厚い兵士を送る。一方ペトロの前にも天使が現れ、ユダヤの律法で禁じられているものを屠って食べるように命じるが「できない」と断る。すると「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声がする。コルネリウスとペトロは行動が対照的である。ペトロはコルネリウスとの交流で神の声を悟る。私たちはペトロのように自分の作った律法で最初から結果を決めつけて行動に移さないことがないだろうか?私たちは神に命じられた時にすぐに立ち上がることができるか問われている。

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「キリストの名によって」使徒3:1-10 中村吉基

エルサレムの神殿の「美しい門」で物乞いをしていた生まれながらに「足の不自由な男」は、神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていた。決して門の中には入れなかった。そこを通ったペトロとヨハネは「金や銀はないが」と前置きし、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言うと、その男は歩き回り、神を賛美し、一緒に境内に入り神を賛美した。施されたものが金と銀であればその男の当面は潤ったかもしれないがまた尽きれば元通りである。しかし使徒たちは、「イエス・キリストの名によって」永遠の救いを約束した。今日の箇所が教えていることは、金と銀ができることには限界がある、それには頼らずイエス・キリストを信じ、模範として生きることが大切である。私たちがすべきことは「キリストの名」を人びとに与えることが、教会がなすべきことである。