「復活への希望」ヨハネ20:1−9 中村吉基

イザヤ書55:1-11;ヨハネによる福音書20:1-9

皆さん、イースターおめでとうございます。

何もかも投げ打って主イエスに従っていた弟子たちは、主イエスこそが、神がこの世界に与えてくださった救い主であると信じ、イスラエルの王になることを期待してやみませんでしたから、エルサレムで2日前の金曜日に起こった出来事、すなわちイエスの殺害を到底受け容れることはできませんでしたし、大きなショックでもありました。十字架刑という当時、最も極刑にある者が受ける死刑執行の方法で、自分たちの救い主が殺されていくとは思いもよらないことでした。

 いったい今まで何を信じて生きてきたのだろう・・・・・・。

弟子たち一人ひとりがそう思ったことでしょう。ある者はそれまでしていた仕事を捨て、ある者は家族を故郷においてこの首都エルサレムに至るまで主イエスについて従ってきた、ついこの間、なつめやしや木々の枝々を手に持った大群衆の歓迎を受けたばかりなのに、それからほどなくしてイエスは殺されてしまった・・・・・・。

主イエスがこの世界に来られて、貧しい人びとは「幸い」であると教えられました。病に苦しんでいた人たちは癒されていきました。ローマ帝国の重税で苦しみ、「罪人」呼ばわりされ、社会の片隅に放り出された人、あるいは病気の人が、その病気のゆえに差別され人間扱いされない現実がある中で、主イエスがいつか、イスラエルの王になられたならば、平和で、快適で、楽しい生活が来るだろうと信じていた人びとの「夢」は十字架の出来事によって簡単に崩れ去りました。

 いったい今まで何を信じて生きてきたのだろう・・・・・・。

しかし、考えてみれば、自分だけが救われて、平穏な生活を手に入れて、多くの人に愛されて生きていくというのは、とても都合の良い、自己中心的な考えではないでしょうか。決してこれは、主イエスの弟子たちやイスラエルの民衆が愚かであるといっているのではないのです。ギリギリまで追い詰められた状態で主イエスに出会った人たちが、じゃあ、このイエスという男に人生を賭けてみようじゃないか、と思ったのも当然のことです。そうではなくて私たちも、ともすれば、信仰を受け身で、誰かに何かを与えるのではなく、自分が何かをもらうことばかりを考えている、そういう信仰に陥りやすいのです。主イエスの十字架の出来事はまさに自己中心的な信仰を持っている者の信仰が崩された瞬間でもあったのです。

主イエスは最後の晩餐の席でこう言われました。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書3:34)。

私たちは自分の都合の良いように愛し、愛されることを望んではいないでしょうか。そうではなく、主イエスがそうされたように、この世の中で誰も目を向けようとしないところに目を向け、そこに生きる人びとを愛する、それを一番大切にして主イエスの死に失望し、力を失った弟子たちは新しい歩みを始めたのが復活の出来事でした。

さて、もう一人悲しみにくれていた人がいました。マグダラのマリアでした。いかなる労働も禁じている安息日が明けるのを待って、主イエスの遺体が納められた墓に急ぎました。1節に「朝早く、まだ暗いうちに」という描写がありますが、マリアの心の内を物語っているようです。主イエスが十字架で殺された金曜日はすでに夕刻近く、安息日に入ろうとしていましたので、遺体を洞穴のような墓に納めただけで、何もしてあげることができなかったので、せめて今からでも墓に行って主イエスの遺体に香油をお塗りしたいという気持ちだったのでしょう。いてもたってもいられずマリアは墓へ急いだのでした。まだ辺りが暗い明け方、やがてそこに太陽が昇るように、世の光である主イエスは死という闇に支配され続けることはありませんでした。

マリアたち(他の福音書ではマリアたち何人かで墓に同行した人たちの名前も記されていますが、ヨハネ福音書にはありません。しかし2節でマリアの言葉で「私たち」と書かれていますので複数いたことでしょう)は墓に着いてみると蓋をしていた石は転がされ、中に遺体はありませんでした。それまで悲しみに打ちひしがれていたマリアは仰天して、ペトロたちに知らせに行きます。きっと男たちはまだ悲しみに打ちひしがれていたのでしょう。私は世界で最初に主イエスの復活の出来事を知ったのはこのマリアという女性であったことには意味があることと信じています。当時の社会の中で貧しい人や、病気の人たちと同様にして、女性たちも、男性に比べると大きな差別を受けていました。そのような境遇にあった女性が最初の主イエスの復活にあずかった、復活の証言者となったのには意味のあることであり、神の深いみ心があったのでしょう。

さて、知らせを受けたペトロ、そして2節には「イエスの愛しておられたもうひとりの弟子」とありますが、おそらくこの福音書の著者であるゼベダイの子ヨハネのことだろうと推察されます。この2人が大急ぎで墓に来てみると、マリアが教えてくれた通りに墓は空っぽで主イエスの遺体が包まれていた亜麻布は置いてあり、また離れたところに遺体の頭を包んでいた覆いも置かれていました。これを見た時にかねて主イエスが十字架で殺されたのちに3日目によみがえられる、つまりイエスが十字架につけられた金曜日を1日目、翌日の土曜日の安息日を2日目とすると、この日曜日の朝は3日目に当たりました。そのように生前の主が言われていたことを思い起こし、そのことを信じたのです。まさに8節「来て、見て、信じた」とありますが、その瞬間でした。

空(から)の墓を最初に見たマリアが思ったように、主イエスの遺体を誰かが運んでいったとも考えられます。しかし、弟子たちはこの出来事を、神のみわざとして信じたのです。「もう一人の弟子」ヨハネがはっきりと理解したように、神は主イエスを死から復活させたのです。神のみわざはかねてから主イエスが告げられていた通りに今ここに実現したと信じたのです。そしてこの復活の出来事は私たちの救いが確かになったものと、改めて、失望していた弟子たちの光となったのです。

今日の箇所の中で、あるいはヨハネ福音書以外の福音書の復活の記事を読んでも、共通して書かれてあることは皆が「驚いた」ということです。空の墓を見て、誰かが遺体を取り去って行ったのだ。まさか主イエスが復活されたとは最初は想像できなかったのです。それはあの十字架でイエスが殺されるところを見ていたからです。血を流して、息絶えたところを見ていたからです。そして墓に葬られ、その墓の入り口が大きな石で塞がれたことも知っていたからです。ですから2節にあるマグダラのマリアの言葉、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と驚きに満ちた言葉が出てきたのです。「死」を直視していたからこそ、復活への驚きがありました。

この「空の墓」という表現ですが、マルコによる福音書などは、主イエスが復活されたとは記さずに、主を埋葬した墓に行ってみたら空だったと描いています。みんなその出来事が恐ろしくて、震え上がり、正気を失って、逃げ去った(マルコ16:8)と書かれてあるのです。そしてマルコ福音書はここで物語が終わってしまうのです。

「いったい今まで何を信じて生きてきたのだろう・・・・・・」と絶望していた人たちに対して、最初期の教会は、主イエスの死で全てが終わったように思われたけれども、その先にまだまだ続きのある世界が広がっていくのだということを伝えたかったのです。そしてこの空の墓から私たちの信仰は始まっているのです。今日のヨハネ福音書でもまたこの「空の墓」を「希望」として記しているのです。主イエスの一番弟子であったペトロも、そして「イエスの愛しておられたもう一人の弟子」と書かれるヨハネも最初は空の墓を理解することができませんでした。今日の箇所の終わりに「イエスが必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」とある通りです。

個人的なことをお話しするのをお許しいただきたいのですが、私は今から20年以上前に母を亡くした時に、それまで何年にも渡る闘病生活が続きまして、その時私は「死」をなかなか直視できない、受容できない現実に見舞われました。当時私は神学生でしたけれども、信仰の危機を感じました。それは信仰の生命線ともいうべき、「祈ること」が出来なくなったのです。あれほどまでに母の癒されるように祈ったというのに、神は応えてくださらなかったのはなぜだろうという思いから、祈れなくなったのです。神学校でも教会でもずっと「祈るふり」をしていました。それからしばらくたったある日のこと、私はかつて訪ねたことのある軽井沢の修道院を訪れ、そこにある聖堂でたたずんでいた時、何か言い知れぬ平安に包まれました。しばらく忙しさのあまり経験していなかった静寂の中で、神の言葉が降りてきたような経験をしたのです。そしてそれと前後して本の中で知ったマザー・テレサの言葉を思い出しました。それは宗教学者の山折哲雄さんの本でしたが、山折さんのインタビューの中でマザー・テレサに「あなたは苦しみや悲しみを毎日のように経験していて、なぜ祈ることが出来るのか?」という問いかけでした。そこでマザー・テレサはたった一言「それでも祈るのです」とだけ答えていたのです。苦しみの中でなお、悲しみの中でもなお、悲惨な現実を目の当たりにしても「にもかかわらず」祈るのだと言うのです。私はその日を境に少しずつ再び祈ることが出来るようになっていきました。これも私の中の「復活」の体験です。しかし私はその時、空っぽになった墓を見ていなかったのだと今になって思うのです。キリスト教信仰が自分にどれだけ利益をもたらしてくれるのかという視点で、浅はかな面があったと思うのです。

ヨハネによる福音書11章25節には主イエスが「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と語っています。主イエスがこのように私たち一人一人に語りかけ、復活の約束をしてくださるのです。私たちは死を怖れなくてもよいのです。死がすべての終わりではないこと、空の墓から希望がもたらされていくことが、イースターの朝、明らかになったのです。怖れは愛に変えられ、死は終わりではなく、その先には復活への希望があるのです。