2024主日礼拝一覧

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「あなたがたのところに来る」ヨハネ14:15-21 中村吉基

今日の箇所は「告別説教」と言われ、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」という約束を中心に「聖霊」と「イエスが供にいる」というや約束がある。始まりの「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」の掟とは「弟子たちがお互いに愛し合うこと」である。イエスは間もなく去るが「みなしご」にしておかない、弁護者、私たちを助けてくれ、寄り添ってくれる存在が来るという。みなしごは普通家族を失った子供に使われるが、この場合はイエスと弟子の関係に使われている。最後の晩餐の後逃げたように、律法学者や祭司たちの批判に耐えてこられたのはイエスが中心にいたからであった。イエスはそのことを責めず「あなたがたのところに戻って来る」「弁護者を遣わす」と約束して下さった。弟子たちがその弁護者に気がつくのはもう少し先である。続く21節の「掟を受け入れ、それを守る人」とは主の福音の教えを行動に表していくことである。そのような人は神にも愛される人であり、主イエスもご自身を現すことによって愛を示していかれる。

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「聖霊によって歩む」2024/04/28 中村吉基

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」と今日の箇所は始まる。創世記で神は人間に自由に生きる道を与えて下さったが、それは好き勝手に生きるということではない。パウロは今日の箇所で「霊(聖霊)に導かれて生きることこそが自由に生きることなのだ」と言う。彼は律法は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって実現すると信じていた。愛するというのも「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」私たちの目の前にいる相手を愛するということである。しかし「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」とも書かれている。そのようにならないように肉の欲望ではなく霊の導きに従って歩みなさいとパウロは言う。肉の望むところは霊に反し、霊の望むところは肉に反するのである。私たちも欲望が尽きることがなく絶えず苦しみを受けるが、パウロは「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」と宣言し「霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」と今日の箇所を結ぶ。聖霊の美徳によって生きるということである。神は人間に自由意志を与えたのは、善に用いるように生かしてくださっているのである。

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「この人たち以上に」ヨハネ21:15-25 中村吉基

先週の続き、ティベリアス湖畔で食事をした後、主イエスとペトロの会話である。主はペトロではなくヨハネの子シモンと呼び、多少言い方の違いはあるが自分を愛しているかを何回も問う。ペトロは聞かれるたびに「愛している」と答える、そうするとまた多少言い方は違うが「私の子羊を飼いなさい」と言われる。何度も聞かれるのでペトロは悲しくなる。主イエスを愛することはキリスト者にとっても牧会においても最も大切なことである。主を愛することなしに信仰生活はおろか、教会の存続すらできない。牧会とは「魂への配慮」とも言われる。ペトロは弟子たちのリーダーで福音宣教にも出て、信者たちの牧会にもあたった。今日の箇所ではそのペトロの殉教についても触れている。またもう一人の弟子もでてくる。その弟子のついてのイエスの言葉の誤解をときながら、証しが真実であることを書いている。実際にイエスを知っていた弟子たちに始まり2000年の時を経て「主イエスを証言する」ことが伝えられてきた。私たちも主の証人である。

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「左側ではなく、右側に」ヨハネ21:1-14 中村吉基

今日の箇所は復活された主イエスがトマスにお会いになった後のことである。場所はティベリアス湖、主イエスの活動の拠点でもあった。夜明けに岸にたっていた主のことを漁をしていたペトロ達は誰だかわからなかったが「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と言われ実行すると「魚があまり多くて、引き上がることができなかった」。この「引き上がる」は神や主イエスがご自身のもとに引き寄せてくださるという言葉と同じである。自身の力ではなく、主イエスを通して多くの魚を引き寄せることできた。自分の経験を信じ「そんな無駄なことやってもダメ」と諦めず、見知らぬ男(主イエス)のいう事に賭けてみたことは、ひとつの信仰の態度と言える。彼らが陸にあがると炭火がおこしてあり、魚とパンが用意されていた。そこに獲れた魚ももってくるよう主はいわれた。聖餐を想起させ心が温まる出来事である。またこの出来事はペトロの経験が覆される出来事であったが、彼はそれを受け容れた。自分の経験や価値観を過信するあまりそれが正しさだと思い行動してしまうが、今日のエピソードは神の恵みの力によって相対化され最後には崩された人間たちの物語であり、主イエスが新しい生き方へとペトロたちを招いているである。

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「絶望のその先に」ヨハネ20:19~31 中村吉基

イエスの十字架刑後、ユダヤ人を恐れて鍵をかけ家にこもっていた弟子たちの真ん中にイエスが立ち、手とわき腹とをお見せになり、「あなたがたに平和があるように」と言われた。しかし弟子たちはそれがイエスであるとはすぐにはわからない。どうも違う姿であったようである。そこでイエスがおっしゃった「あなたがたに平和があるように」とはヨハネ14章の言葉と関係があり、これから聖霊が到来するのだという宣言でもある。さて。その場にいなかったトマスは躓いたままだった。しかしイエスはそのトマスのところにも行き、傷を触らせた。じかに主イエスの傷跡にふれたトマスは主イエスが生きておられることを確信した。イエスが十字架刑になったことで、固まってしまった人びとの心をイエスが愛とゆるしに満ちた言葉で溶かしていく。復活は絶望的になっていた人びとが再生する道を与えた。家に閉じこもっていた弟子たちは外にでて教えを宣べ伝え、多くの弟子たちが最後には殉教することもいとわなくなっていた。これが神の愛の力である。そして私たちもこの神の愛を知ることによって、包まれることによって変わることができるのである。

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「復活への希望」ヨハネ20:1−9 中村吉基

イエスがイスラエルの王となったら平和な生活ができると信じ、全てをなげうって従って来た弟子たちは、十字架刑で自分たちの救い主が殺されてしまったことを到底受け入れられなかった。しかし自分達だけが救われて平穏な生活を手に入れるというのは都合のいい自己中心的な考えではないだろうか?最後の晩餐の席で主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われた。自分の都合の良いようにでなく、イエスがなさったように誰も目を向けようとしないところで生きる人びとを愛する、それを一番大切にして弟子たちが新しい歩みを始めたのが復活の出来事である。マグダラのマリアが安息日を前に夜明けに墓へ行ったが中には何もなかった。マリア達は「遺体が持ちされた」と驚き、急いでペトロ達に知らせた。見に来た彼らも空の墓をみて「持ち去られた」と驚いたが、生前のイエスの「3日後によみがえる」という言葉を思い出し、最後にはこの出来事を神のみわざとして信じた。しかし理解はできていなかった。ヨハネ福音書ではこの「空の墓」を「希望」としている。イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と語っている。このように私たちに語りかけ復活の約束をしてくださる。イースターの朝、空の墓から希望がもたらされたこと、死がすべての終わりではなくその先には復活への希望があることが明らかになったのである。

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「熱心と熱狂の違い」ヨハネ12:12-19 中村吉基

二千年前の誕生した教会はイエスの「死と復活」を伝えた。聖書は主イエスの「死」を私たち人間の罪のために死なれたと記しているし、パウロは「キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」と書いている。今日から受難週である。ろばに乗ってエルサレムに入ったイエスを、枝を持った人々は「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」と叫び迎えた。ラザロが生き返った奇跡を目撃した人達がイエスこそ勝利の王であると熱狂的に迎えたのである。しかしファリサイ派の人々もそれを見ていた。ヨハネは人間の「罪深さ」「愚かさ」「軽さ」を知って悲しくなるような思いでここを記したのではないかと思う。私たちは自分たちの事も自戒しなければならない。他の誰かを思う「熱心」はとても良いことだが、自分だけの思いや利益を追求したり、人から報われることばかりを考える時、その熱心は「熱狂」に変わることがある。自分ではなかなか気がつかないので、自分の闇の部分を神の光で照らしていただく必要がある。熱狂的に主イエスを迎えた群衆は、イエスを十字架で死刑に処することに賛成する。この人間の変わり身の早さ、罪深さを思いながら、今日から始まる受難週を過ごし来週は喜びのイースターを共に迎えよう。

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「わたしの記念として」Iコリント11:23-26 廣石望

本日の聖書箇所にある「主の晩餐」には何があり、イエスがそこに託した意味は何だろうか?まずこれはイエスが「罪人」と呼ばれる者たちと共に祝った「交わりの食卓」の延長線上である。イエスにとって「神の王国」は宴であり「交わりの食卓」は「神の王国」を先取りするものであった。ではパウロのコリント教会に宛てられた書簡においてはどうなっているのだろうか?冒頭の「私自身が主から受けたことを、君たちに伝えもした」で伝承の受け渡しを示唆し、「君たちがこのパンを食べ、そして杯を飲むごとに」とあるので、定期的に食事式を枠とする礼拝があり、それが「わたしの記念として」、つまり今は死んだイエスの生前のあり方を想起することが目的だったことがわかる。最後の「君たちは主の死を告げ知らせるのだから―彼が来るまで」の一文で昇天しているイエスがやがて審判者として到来する。キリスト教共同体は、主イエスの「死」を告知し続けることになる。イエスの死は暴力的な虐殺の死ではあったが神は共にいた。彼はイエスと共に死の中へと歩み入り、死者たちの中より起こし天高く引き上げ天上の宴の喜びに加えた。やがてイエスは来たり、自分がこの世界すべての現実の規準であることを示すであろう。

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「文字と霊」IIコリント3:3-18 廣石望

パウロはコリントの共同体のことを「インクでなく神の霊で石の版でなく肉の心という板に書かれたキリストの手紙だ」という。いくつかの旧約のモチーフがひかれており、「コリントのキリスト共同体はエレミヤやエゼキエルの預言の成就でありそれはかつて破られたモーセのシナイ契約を超える、神が与えた新しい霊によって「肉の心」として体現される神の民」ということのようである。そして「新しい契約」が「霊」の性格をもつとは、その担い手が肉となった終末論的な共同体であること、私たちが神の究極的な働きが現れる具体的な場であること、「文字は殺す」は神との関係の断絶としての死をもたらすという意味であろう。 パウロが言う「文字vs霊」とはユダヤ教や旧約との対比ではない。出エジプトが伝える「モーセの顔覆い」に見られるモーセの顔が放つ光とキリストの栄光との比較と言える。 私たちは、キリストの栄光を受けて新しい人間へと変貌するために聖書を日々新しく読み、神から託された平和の務めを果たしたい。

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「人生は困難ではない」ヨハネ9:1-12 中村吉基

道端にいた生まれつき目の見えない人を見てイエスの弟子たちが「いったい誰のせいで彼は目が見えなくなったのか」ときくのが今日の箇所である。日本も昔はそうであったし、本来なら人を救う宗教が「因果応報」という仏教の言葉を使って人の弱さにつけこむ人が今日でもいる。旧約聖書でもヨブ記他このような考え方があり、弟子たちからこのような質問となったのである。この質問は当の本人にも聞こえていただろう。目が見えないだけで罪人扱いされてきたのである。イエスは質問に答えた「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。そして唾で土をこねその人の目にあててシロアムの池に行って洗うように言う。なぜこんな手間をかけるのであろうか?それはイエスを「信じる」という目を開ける必要があったのかもしれない。見えるようになった後「あれは座って物乞いをしていた人ではないか」と言う人々に対し、本人は「わたしがそうなのです」と堂々と言う。神の業がこの人に現れたのである。続いて「その人はどこにいるのか」と問われると「知らない」と答える。この話はまだ続いていくが、私たちも神を「知らない」と言ってしまうかもしれない。しかし神は私たちを見つけて下さる。それほどまでに慈しみ、祝福されている。