「左側ではなく、右側に」ヨハネ21:1-14 中村吉基

イザヤ書61:1-3;ヨハネによる福音書21:1-14

今日の箇所で主イエスは突然にこう言いました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」。ペトロたちにとって見れば、この見知らぬ男がやってきて唐突にこんなことを言われては、驚かないわけはありません。ペトロたちは元々漁師です。それに対して主イエスは素人です。ガリラヤ湖のことも、風の状態も、魚の習性もペトロたちには重々良く判っていたはずなのです。しかし、そのような漁師たちに「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」とはいったいどういうことなのでしょうか。びっくり仰天しながら、でもそういうのであるならば、網を降ろしてみましょうとするのでした。

先週からの続きの物語です。「その後」というのは、復活された主イエスが弟子のトマスにお会いになった出来事(20:26以下)の続きになります。すでに主は復活された日曜に弟子たちにお会いになり、1 週間後にトマスにまみえてそして3度目には、主イエスの活動の拠点であったティベリアス湖(ガリラヤ湖)で現れます。主は以前にもここで5つのパンと2匹の魚で大勢の人たちを養い、湖上を歩いたとヨハネ福音書は語っています。

夜明けになった頃、主は岸に立っておられました。思い起こせば主が甦られたのも夜明けの出来事でした。この見知らぬ男、「それがイエスだとは分からなかった」(4節)とあるようにこのとき弟子たちにはその男が復活された主イエスだとは判らなかったのです。なんでしょうか。何かわからないけれども、この見知らぬ男から溢れている光、愛、力と言ったものがペトロたちを動かしたのかもしれません。福音書はそのことを描いていませんが、彼らを動かす「何か」があったに違いありません。

主イエスは言いました。「子たちよ、何か食べるものがあるか」(5)。「何かおかずにするもの(魚)はお持ちか」(田川訳)とパンなどに添えて食べるもの、ここでは具体的に魚を想定しているでしょう。「あるか」という言葉は「持っていない」ことを想定している問いです。ある翻訳では「幼子たちよ、〔パンと〕一緒に食べる〔さかなが〕ないのだろう」(岩波訳)と訳しています。

6節です。

イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

以前にもペトロは一晩中漁に出て、何も獲れなかったことがありました。けれども主イエスの言葉に従うとたくさんの魚を得ました(ルカ5)。今回もそれと同じような物語です。その「魚があまり多くて、引き上がることができなかった」とあります。この「引き上げる」という言葉は神や主イエスがご自身のもとに引き寄せてくださるという言葉と同じです。ペトロが自分自身の力ではダメだったけれども、主イエスを通して多くの魚を引き寄せることができました。これは主の力がこの「私」に及ぶ時、それは想像できないような大きな力になるということを表しています。

私たちは、皆が一人ひとり、違う家庭に生まれ、育った環境も、価値観もそれぞれ違う中で成長させられてきました。私たちの考え方や行動の仕方と言うのは、それぞれの過去の経験が反映されていると言ってよいと思います。もしも、私が皆さんのお仕事や専門をまったく知らずに助言したとします。皆さんはその道のプロですから、私の素人的なアドヴァイスに笑うかもしれません。この時のペトロたちもまさにそうでした。今日はたまたま魚が獲れなかったというわけではない、さまざまな要因が重なって獲れなかったとプロの漁師ならば分析していたかもしれません。私たちが漁師ならば、「そんな無駄なことやってもダメですよ。今日はまったく魚が獲れませんよ」と、端っから諦めたり、嘲笑していたかもしれません。しかし、この男の言っていることに賭けてみようと彼らは思いました。これはひとつの信仰の態度と言えます。

「イエスの愛しておられた弟子」とは、この福音書の著者ヨハネであることはイースター礼拝の時にもお話ししましたが、彼は夜明けの湖畔に立たれた主イエスを見て、ペトロに伝えました。この時ペトロが上着をまとって湖の中に飛び込むという不思議な行動に出るわけですが、主に再会したときのことを考えて居住まいを正そうとしたのでしょう。その時他の弟子たちは、「魚のかかった網を引いて、(小さな)舟で戻ってきた」(8)。陸から200ぺキスとあります。1ぺキスは約45センチ、肘から指先までの長さと言われます。約90メートルのところの湖上だったようです。

そして彼らが陸に上がってみると炭火が起こしてあり、魚とパンが用意されていました。でもそれだけではなく、漁で獲れた魚も持ってくるようにと主は言われました。私はここを読む時に、聖餐を思い起こします。私たちの教会の聖餐の際に捧げる祈りには、「わたしたちは いまこの食卓に あなたから戴いた大地の恵み、また多くの人々の労働のたまものであるパンとぶどう酒を持ち来たって……」いう一節があります。つまり主イエスが私たちのために用意してくださった食卓(聖餐)のテーブルの上に置かれているのは、神の恵みによるパンとぶどう酒であるとともに、私たちの労働の実りであるパンとぶどう酒でもあるのです。それを私たちが頂くということは神あるいは主イエスと私たちが完全に交わるということでもあります。このエピソードを読む時にも心が温かくなるような出来事ではないかと思うのです。

私たちの人生には、私たちが予期もしないようなことが無数に起こります。ペトロたちの降ろした網は破れそうになるほど大漁になりました。その獲れた魚の数が153匹だったと記されています(11節)が、一説によれば当時の世界で知られていた魚の種類は153種であったということもあるようで、「主イエスの救いには誰ももれる人がいない」ということでもあり、一方で漁師たちの間で平等に分け合うためにきちんと数えたのではないかと考える人もあるようです。

しかしこれはペトロのこれまでの経験が覆される出来事でした。仕方ありません。ついさっきまで魚は獲れなかったのですから。しかし今は網から溢れんばかりの魚を目の当たりにしています。ペトロの中で何か根底から揺さぶられるものが込み上げてきたことは言うまでもありません。何かが違う、自分が経験してきた、当たり前だと思ってきたことを超える力が働いている。そのように感じていました。そしてそのことを素直に受け容れるのです。

私たちが自分の経験や価値観にあまりに過信してしまうあまり、自分の考えや思いだけが正しいと思って行動してしまうものです。今日のエピソードは神の恵みの力によって相対化され、最後には崩された人間たちの物語です。この出来事はペトロたちのこれまでの生き方、価値観、経験、学んだことなどなど、さまざまなしがらみからの「解放」される出来事であり、主イエスが新しい生き方へとペトロたちを招いているのです。