2022年09月一覧

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「分かち合うことから始めよう」ルカ16:19-31 中村吉基

毎週続けてルカによる福音書から神の御言葉を聞いているが、先週に引き続きいかに私たちに与えられている富を管理すべきかということである。今日の箇所はラザロのたとえ話である。この話は一見贅沢をした者が地獄へ貧しい者が天国へ行く話に思えるがそういうことではない。金持ちは悪いことをしたとは書いていないが家の前にいて苦しんでいたラザロに対して無関心だった。マザーテレサの言う「愛の反対」である。死後金持ちはラザロと同じ目に合う。今日の箇所の直前には「金に執着するファリサイ派」とある。神の律法とは神を愛し、隣人を愛し、貧しい人や困っている人のために自分の持っているものを分かち合うという精神があるが、自分の生活の豊さや細かい規定ばかりを熱心になっていたファリサイ派を批判している。その批判は私達のものでもある。後半のアブラハムの言葉は、今本当の教えを聞いているのにそれに心の扉を閉めてしまう私達の態度である。近くにいる小さくされた兄弟とは誰のことか、それぞれの兄弟に心の扉をひらく一週間にしよう。

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「『自分』からの解放」ルカ16:1-13 中村吉基

主人の財産を管理をする職を失いそうになり、主人の借金を勝手に減らして恩義を売るという不正を働いて保身を図ろうとする「不正な管理人の譬え話」。これは十字架を悟っていたイエスが危機感のない弟子たちに語った話であることが1つのキーポイントである。さてその管理人に対して主人は褒める。イエスも同様で「不正にまみれた富」で友達を作るように続ける。イエスは不正を大目に見ているわけではなく機敏な対応を褒めている。富自体は不正なものではないが、今日の旧約の箇所であるアモス書にあるように富には人を所有する欲望にとりつかせるような一面もある。イエスは「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」と言われる。我々は神に仕えなければならない。しかし自分だけでそれを成し遂げるのは困難である。パウロの手紙にもセレニティの祈りにもあるようには「見分けることの大切さ」が大切であり、不正な管理人が他人の力を借りたように我々にも手を差し伸べてくれる方が必要であり、その方こそイエス ・ キリストである。

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「かけがえのない存在」ルカ15:1-10 中村吉基

人はなぜ競争し、勝たなければならないのか?仕事や才能、豊かさ、損得をもって価値を決めるのか?と最近よく考える。イエスさまの価値観は現代社会とは真逆のところにある。イエスは徴税人や罪人(とレッテル貼りされた人々)と食事を供にされた。なぜ彼らと親しくするのか不満に思うファリサイ派や律法学者たちと訊かれたとえ話をなさる。100匹の羊、なくした銀貨。いうまでもなく、みつかった1匹の羊や見つけられた銀貨は私達のことである。無事に見いだされるまで神さまは決して喜ばれない。ひとりひとりがかけがえのない存在なのである。

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「オネシモーー役に立つ者へ」フィレモン1~25 中村吉基

今日の聖書箇所「フィレモンへの手紙」はパウロが獄中で書いたものとされる。内容は、フィレモンの元奴隷で財産を盗んで逃げだしオネシモを、 ローマでパウロに会いキリストにある兄弟として受け入れてほしいというものである。主イエスの十字架によってパウロもフィレモンも赦されたように、今度はフィレモンもオネシモを赦して欲しい、と。フィレモンにとってパウロは先生といっていい存在であるが、命令ではなく「愛に訴えて」、「 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」と書く。歴史の中で人間は身分とか、いろいろな人が持つ「違い」から差別を繰り返してきました。しかし、イエス・キリストに結ばれるならば、「=」イコールで結ばれる、キリストにある、愛する兄弟となることができる。かつて奴隷として逃亡したこともある「役に立たない」オネシモでした。しかし、キリストに出遇って彼は救われたのです。主イエスに出遇って彼は変えられた。オネシモのような私たちに、キリストは近づいて来て救ってくださいました。私たちも喜んで神と人に仕えるオネシモ(役に立つもの)になろう