「あなたはそれでも……?」 使徒15:1-12 中村吉基

アモス書9:11-15;使徒言行録15:1-12

『置かれた場所で咲きなさい』という書物で一世を風靡した渡辺和子シスター(1927-2016)は、洗礼を反対されていた母親に、信仰に入られた後もよく「あなたはそれでもクリスチャン?」とたしなめられたそうです。私たちも信仰生活、教会生活を続けていますと、「キリスト者(クリスチャン)はこうでなければ」とか「あの人はホントにキリスト者?」などと裁いてしまうことがあります。

私たちは目に見える部分ばかり気にしてしまいますね。その人が持っている良さを見抜く力を備えなければならないでしょう。そんな私たちにも共通していることは神の恵みによって救いに与(あずか)ったということです。今日は、神の恵みによって「自分が救われている」ことを再確認することをご一緒にしてみたいと思うのです。

冒頭にこう記されています。

ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた(1節)というのです。

舞台はアンティオキアの教会。ここで気になるのは「ある人びとが」とありますが、これは誰のことでしょうか? エルサレム、またその周辺からやってきたユダヤ人キリスト者のことです。つまり教会は当初、ユダヤ人キリスト者ばかりで構成されていましたが、そこに異邦人つまり外国人のキリスト者たちも徐々に加えられてきたのです。

日本でもたとえばカトリックの教会では、バブル経済期以降に出稼ぎに来る外国人が増えて、日本人信徒ばかりだった教会に、ブラジル人たちとかフィリピンの人たちが増えてくるということが起こりました。都会などにおいてはそういう人たちのために母国語でミサをするということもありますが、地方に行けば母国語でミサをしてくださる司祭は少なく、なかなかそういう配慮が難しくなってきます。でも彼らもミサで御言葉を聴きたいし、力も受けたいことには変わりありませんので、どんどん日本語でのミサに参列をします。そうすると同じキリスト者と言っても、それぞれの教会の「お国柄」もありますし、なかなか双方の信徒がうまく行かない問題も起こった教会があるとも聞きます。もちろんとても仲良くやっているところも多いわけですが、今日の箇所に戻りますと、ユダヤ人キリスト者からすれば、外国人のキリスト者はかなり異質であったわけです。それは仕方がないことです。生まれたところも、育った環境も、風習も慣習もみんなちがうわけですから。

しかし、人間というのはこういう時、悪い本能が出てきてしまいます。それは「同化」するということです。日本も第2次大戦中に国内のアイヌの人びとや小笠原諸島の人びと、そしてアジアの人びとにも「日本国民」としての文化伝統などを押し付けました。そして人間の歴史を顧みれば、強いものが弱いものをどうかするという愚かなことを繰り返してきました。国家とまでは行かないとしても、元々教会にいたキリスト者の先輩のユダヤ人たちが後から入ってきた外国人たちを同化しようとするのです。

つまりユダヤ人と同じように外国人も割礼を受けて初めて救われるというようなまったく福音のメッセージとは違うものでした。2節をごらんください。

それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。

パウロとバルナバは、この事は看過できないことだと考えていました。1節の「ある人びと」というのは一部の人のことであって、ユダヤ人の中にもこれに反対する人もあっただろうと思われます。だからこの議論は「論争」となって紛糾したのです。そこでアンティオキアの教会だけでは収拾がつかなくなって、エルサレムの総本山のような教会に判断を委ねました。パウロとバルナバはエルサレム教会に相談に向かいました。エルサレムに行く道すがらでも、パウロとバルナバは主が行ってくださったことを証しし続けたのです。そしてエルサレム教会に着いてからも皆の歓待を受けて、そこでも外国人がたくさん救われた話は、皆の喜びとなりました。

しかし、そのエルサレムの教会にもあの「ある人びと」と同意見の人たちがいました。5節によればその人たちはファリサイ派からキリスト者になった人たちでありました。

彼らは主イエスの福音のメッセージを受け容れたはずでしたが、まだファリサイ派的な考え方が身体にこびりついていたのです。外国人に伝道するのには賛成だけれども、外国人も自分たちと同じ割礼を受けてこそ祝福されるのだと考えていたのです。

6節 そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。

ついにこの問題で会議が開かれることになりました。この中には使徒のリーダーであったペトロもいました。ペトロはコルネリウスという外国人に伝道したことで、すっかり外国人に対する思いが変えられていたのです。それは8節に書かれてある通りですが、これは今日の場面のハイライト、今日の箇所のキーワードです。

人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。

神はコルネリウスたち外国人にも聖霊をお与えになった。それは何よりも外国人が救いに入れられた証拠ではないか。ペトロの渾身からの主張でした。

ペトロの言葉は続きます。10節です。

それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛(くびき)を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。

「軛(くびき)」という言葉は今では聖書の中でしか聞かないような言葉ですが、牛、馬などの家畜の首にはめる木製の枠といったらいいでしょうか。2頭一緒になって牛車を引く時に隣の牛にも同じ軛を掛けて並んで歩かせるものです。ここでは「義務」という意味で使われています。そして割礼を持ち出して、神を試みようとするというのは、神が必要とされないしるしや条件を出してくるのは、神がせっかく外国人に聖霊を与えてくださっているのに、それを無視することになるではないか、ということです。

そして11節でも、ペトロは、

わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。

人間が努力をして救いを得ることはできません。たとえ何か完璧な行動を成し遂げたとしても、それで救われるわけではありません。私たちが救われるには神が差し伸べてくださる御手につながらせていただくだけなのです。そのためには信仰が必要です。信仰に寄って神が与えてくださる救いを受け取るのです。

フィリピの信徒への手紙3章20節にはこのように記されています。

わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

先日読みました書物には、インドからアメリカに移住して永住権を取ったインド人夫妻のことが書かれてありました。

指紋を採るためにお金を払い、100問の質問に合格して永住権を取ることができたのは現在のアメリカでは容易なことではありません。しかしその経験を通してこの夫妻はこの地上では寄留しているのにすぎず、自分たちが本当に永住するのは天国だと理解できたそうです。天国に入るのに、高額な費用や難しい面接はありません。なぜなら神の方で私たちがそこに導かれるように招いてくださっているからです。

私たちは日本に生まれたから自ずと日本国民となっていますが、天国の国民となるためには、主イエスを救い主と信じるだけでよいのです。神の招きに応えて、これまで神に背を向けていたことを悔い改め、洗礼を受けるのです。そこに生まれた国や民族やセクシュアリティなどが問われることはありません。神ご自身が私たちを「神の民」となるように招いてくださっているからです。

今日の使徒言行録のエピソードが教えていることは、私たちが自分の行動や努力で救いを手にすることはできません。救いは一方的な神の恵みです。そして神の救いを得るのに、条件や資格は一切ないということです。すべては神の「無条件」の愛によるものだからです。