ファリサイ派一覧

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「熱心と熱狂の違い」ヨハネ12:12-19 中村吉基

二千年前の誕生した教会はイエスの「死と復活」を伝えた。聖書は主イエスの「死」を私たち人間の罪のために死なれたと記しているし、パウロは「キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」と書いている。今日から受難週である。ろばに乗ってエルサレムに入ったイエスを、枝を持った人々は「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」と叫び迎えた。ラザロが生き返った奇跡を目撃した人達がイエスこそ勝利の王であると熱狂的に迎えたのである。しかしファリサイ派の人々もそれを見ていた。ヨハネは人間の「罪深さ」「愚かさ」「軽さ」を知って悲しくなるような思いでここを記したのではないかと思う。私たちは自分たちの事も自戒しなければならない。他の誰かを思う「熱心」はとても良いことだが、自分だけの思いや利益を追求したり、人から報われることばかりを考える時、その熱心は「熱狂」に変わることがある。自分ではなかなか気がつかないので、自分の闇の部分を神の光で照らしていただく必要がある。熱狂的に主イエスを迎えた群衆は、イエスを十字架で死刑に処することに賛成する。この人間の変わり身の早さ、罪深さを思いながら、今日から始まる受難週を過ごし来週は喜びのイースターを共に迎えよう。

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「裁きとゆるしと」ヨハネ8:1-11 中村吉基

民衆の前で教えているイエスの前に、姦通で石打ちの刑が決まっている女性が連れてこられる。ファリサイ派と律法学者はイエスに対してモーセを通して神が命じたことに対して主イエスがどのように答えるかと挑発のためである。もし私たちがこの場にいたらどの立場だろうか?イエスはかがみこみ指で地面に何か書き、始め立ち上がって「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われる。そしてみな立ち去るのだが女性は残る。イエスはこの女性に対し「罪に定めない」と言われる。これはこの女性がゆるされたこと、神にいつも愛されていることを思い知って、精一杯に神から与えられた「いのち」を存分に生きてほしいと願われた、また過去に起こってしまったことよりも今日からの生き方に値打ちがあるのだということである。神は人間が再出発するチャンスを与えてくださるのである。我々は裁きの言葉ではなくてゆるしの言葉に聴かなければない。私たちも主のゆるしの中で生かされている。

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「あなたはそれでも……?」 使徒15:1-12 中村吉基

当初ユダヤ人だけで構成されていた教会は、徐々に異邦人のキリスト者が増えていった。今日の箇所、アンティオキアの教会でも同様であったが、そこで一部のユダヤ人が「割礼をうけなければあなたがたは救われない」と教え始める。しかしそれは福音のメッセージとは違う。パウロとバルナバはこの件につい激しい論争をするが、その判断をエルサレムに託す。エルサレムにはペトロもいた。すでにコルネリウスらに伝道したことですっかり外国人への見方がかわっていペトロは「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じこと」と主張する。人間が努力をして救いを得ることはできない。私たちが救われるには神が差し伸べてくださる御手につながることである。救いは一方的な神の恵み、神の「無条件」の愛によるものなのである。

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「神の国はあなたたちのところに」マタイ12:22-32中村吉基

口の利けなくなっていた人が主イエスによって癒される奇跡をみて、人々は「この人はダビデの子(待ちに待った救い主)ではないだろうか」と驚く。イザヤ書35章にある神の約束が主イエスによって実現した時でもあった。主イエスの人気が高まり行く先々に群衆は押し寄せるほどとなると、疎ましく思ったり、妬んだり、ストレートに大嫌いだとする人もでてきた。ファリサイ派もその一例である。彼らは奇跡は認めるが、その力を神ではなく悪霊の頭のものであると主張した。そうではないと、イエスを救い主と認め自分たちの権威を捨てなければならないからである。しかしイエスは「サタンがサタンを追い出せば内輪もめではないか」と反論し、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのかとも訊く。ファリサイ派は考えを新しくすることを恐れ神の力を悪霊の力としたが、それは聖霊への冒涜なのであると次の箇所に続くのである。イエス・キリストと私たちの出会いは、私たちの側が変化することが求められる。受難節が始まる灰の水曜日に「ちり」からできた存在であることを確認し、御独り子を与えるほどにこの世を愛し、十字架の死からご復活まで神の栄光を見せてくださった神に、罪をわび、ゆるしていただく。また謙虚さが足りないときにじっくり黙想をして神に方向転換をする力をいただきたい。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」という言葉を信じて歩いて行こう。

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「神の心に響く人」ルカ18:9–14 中村吉基

今日の箇所は2人の祈りの譬えである。律法をよく学んで掟を確実に実行するファリサイ派と民衆から「罪人」と同様にさげすまれていた徴税人です。しかし模範的なファリサイ派の祈りはその高慢さと惨めさを包み隠さずに神にぶつけるような(カトリックの射祷を想起するような)徴税人の祈りは対照的です。 私達にはいつでも驕り高ぶる者になってしまう危険性がある。年に一度こうして宗教改革を記念して礼拝を捧げ、信仰を原点に戻そうという運動を思い起こしたい。1414年コンスタンツ公会議で火あぶりの刑に処されたヤン・フスは一般市民にも分かるような簡単なチェコ語の説教書を著わし、各人の心の正義を模索しより神に近い生活を送るべきだと言うのが彼の信条であった。処刑後崇敬の対象とならないようにライン川に灰は流されたが、現在のチェコの旗には彼の言葉「真実は勝つ」が記されている。今日の箇所の終わりには「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」とある他者へのやさしさをより深く行うことのできるように神に力をいただき、そして神の心に響く者へと変えられていこう。

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「分かち合うことから始めよう」ルカ16:19-31 中村吉基

毎週続けてルカによる福音書から神の御言葉を聞いているが、先週に引き続きいかに私たちに与えられている富を管理すべきかということである。今日の箇所はラザロのたとえ話である。この話は一見贅沢をした者が地獄へ貧しい者が天国へ行く話に思えるがそういうことではない。金持ちは悪いことをしたとは書いていないが家の前にいて苦しんでいたラザロに対して無関心だった。マザーテレサの言う「愛の反対」である。死後金持ちはラザロと同じ目に合う。今日の箇所の直前には「金に執着するファリサイ派」とある。神の律法とは神を愛し、隣人を愛し、貧しい人や困っている人のために自分の持っているものを分かち合うという精神があるが、自分の生活の豊さや細かい規定ばかりを熱心になっていたファリサイ派を批判している。その批判は私達のものでもある。後半のアブラハムの言葉は、今本当の教えを聞いているのにそれに心の扉を閉めてしまう私達の態度である。近くにいる小さくされた兄弟とは誰のことか、それぞれの兄弟に心の扉をひらく一週間にしよう。