バルナバ一覧

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「あなたはそれでも……?」 使徒15:1-12 中村吉基

当初ユダヤ人だけで構成されていた教会は、徐々に異邦人のキリスト者が増えていった。今日の箇所、アンティオキアの教会でも同様であったが、そこで一部のユダヤ人が「割礼をうけなければあなたがたは救われない」と教え始める。しかしそれは福音のメッセージとは違う。パウロとバルナバはこの件につい激しい論争をするが、その判断をエルサレムに託す。エルサレムにはペトロもいた。すでにコルネリウスらに伝道したことですっかり外国人への見方がかわっていペトロは「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じこと」と主張する。人間が努力をして救いを得ることはできない。私たちが救われるには神が差し伸べてくださる御手につながることである。救いは一方的な神の恵み、神の「無条件」の愛によるものなのである。

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「受け容れる人、拒む人」使徒13:44-52 中村吉基

パウロとバルナバの教えは異邦人には評判がよくたくさんの人に受け入れられたが、「選ばれた民族」と信じていたユダヤ人からは反対された。しかしパウロとバルナバは勇敢に語り、わたしたちは異邦人のほうに行く」と宣言する。「ただ神にのみ栄光を」とは宗教改革者ジャン・カルヴァンが大切にした言葉である。それは神によって救われた生活を送る、神とともに生きるということである。今日の箇所の最後は「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」とある。我々は「喜びと聖霊」に満たされているだろうか?自分のため、または自分の利益のためにとなりがちであるが、そうではなく「ただ神にのみ栄光を」、神の愛の中で生きるのである。

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「あなたがたは行って……」マタイ28:16-20 中村吉基

5月18日木曜日が主の昇天記念日で世界中の教会で祝われたが、それは主イエスの力が全てに及ぶことを意味する。今日の18節以下で彼は弟子たちにすべての民を弟子にしなさいと言ったが、ただ信徒を増やせばいいのではない。福音の教えによって視座の転換、つまり悔い改めをすることが大切である。二千年前、わずか11人で始めた「イエスはキリスト」という教えを、異邦人にも積極的に伝道し、ある人は音楽や美術など遠して主イエスを表現した。私たちもイエスの弟子である。イエスは私たちに「行きなさい」と言われる。また20節にある「あなたがたに命じておいたこと」というのはたくさんあるが、最も大切なことは「神を愛し、隣人を愛しなさい」である。今日の箇所には「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とある。私たちも聖霊の力をいただいて今の自分にできることからはじめていこう。

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「世直しへ召された者の心構えと佇まい」 マタイ10:5−15 陶山義雄

マタイ福音書第Ⅱ説教集の3回目のテーマは弟子派遣にまつわるテキストであるが、受難節第1主日に相応しい内容を備えている。まず、我々がここに在るのは宣教者の働きによるものである。彼らは遣わされる際に様々な困難に対しての備えと心の準備をしている。マタイを含めて他福音書にある同じ「12弟子派遣の説教」の記述を参照しながらイエスが話された御言葉に迫って行きたい。マタイ記者は当時のユダヤ教に対抗する思いをもって教会の働きを描こうとしているので、現実から、またイエスの言葉からもかけ離れてしまっている点がある。世直しへと召された者の佇まいとしてイエスの教えは、清貧の出で立ち、極貧者のような佇まい、それは救いを待ち望んでいる人々と同じ姿になる事に尽きる。イエスが弟子を遣わす際に語られた言葉は、今も私達と教会に生きて働く言葉である。そしてイエスの第一声で、弟子たち伝えるべきメッセージ「天の国は近づいた」は我々が心に明記すべき救いの知らせ、福音である。