アモス書一覧

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「あなたはそれでも……?」 使徒15:1-12 中村吉基

当初ユダヤ人だけで構成されていた教会は、徐々に異邦人のキリスト者が増えていった。今日の箇所、アンティオキアの教会でも同様であったが、そこで一部のユダヤ人が「割礼をうけなければあなたがたは救われない」と教え始める。しかしそれは福音のメッセージとは違う。パウロとバルナバはこの件につい激しい論争をするが、その判断をエルサレムに託す。エルサレムにはペトロもいた。すでにコルネリウスらに伝道したことですっかり外国人への見方がかわっていペトロは「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じこと」と主張する。人間が努力をして救いを得ることはできない。私たちが救われるには神が差し伸べてくださる御手につながることである。救いは一方的な神の恵み、神の「無条件」の愛によるものなのである。

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「全世界を手に入れても」マルコ8:31-38 廣石望

ロシアによるウクライナ侵攻や、かつての満州でも巨大な権力の支配欲の暴走である。かつてのイエスの死もローマ帝国による「全世界を手に入れる」ことへの欲望があった。本日の礼拝では、マルコ福音書の受難復活予告を含む段落を手がかりに、弱い者たちの上に避けようもなく降りかかる暴力がどう理解されたのか、私たちに何ができるのかを、ごいっしょに考えたい。

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「分かち合うことから始めよう」ルカ16:19-31 中村吉基

毎週続けてルカによる福音書から神の御言葉を聞いているが、先週に引き続きいかに私たちに与えられている富を管理すべきかということである。今日の箇所はラザロのたとえ話である。この話は一見贅沢をした者が地獄へ貧しい者が天国へ行く話に思えるがそういうことではない。金持ちは悪いことをしたとは書いていないが家の前にいて苦しんでいたラザロに対して無関心だった。マザーテレサの言う「愛の反対」である。死後金持ちはラザロと同じ目に合う。今日の箇所の直前には「金に執着するファリサイ派」とある。神の律法とは神を愛し、隣人を愛し、貧しい人や困っている人のために自分の持っているものを分かち合うという精神があるが、自分の生活の豊さや細かい規定ばかりを熱心になっていたファリサイ派を批判している。その批判は私達のものでもある。後半のアブラハムの言葉は、今本当の教えを聞いているのにそれに心の扉を閉めてしまう私達の態度である。近くにいる小さくされた兄弟とは誰のことか、それぞれの兄弟に心の扉をひらく一週間にしよう。

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「『自分』からの解放」ルカ16:1-13 中村吉基

主人の財産を管理をする職を失いそうになり、主人の借金を勝手に減らして恩義を売るという不正を働いて保身を図ろうとする「不正な管理人の譬え話」。これは十字架を悟っていたイエスが危機感のない弟子たちに語った話であることが1つのキーポイントである。さてその管理人に対して主人は褒める。イエスも同様で「不正にまみれた富」で友達を作るように続ける。イエスは不正を大目に見ているわけではなく機敏な対応を褒めている。富自体は不正なものではないが、今日の旧約の箇所であるアモス書にあるように富には人を所有する欲望にとりつかせるような一面もある。イエスは「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」と言われる。我々は神に仕えなければならない。しかし自分だけでそれを成し遂げるのは困難である。パウロの手紙にもセレニティの祈りにもあるようには「見分けることの大切さ」が大切であり、不正な管理人が他人の力を借りたように我々にも手を差し伸べてくれる方が必要であり、その方こそイエス ・ キリストである。