2023主日礼拝一覧

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「星に導かれて」マタイ2:1-12 中村吉基

今日は、主イエスが世界のすべての人の救い主としてお生まれになった公現を祝う日である。ここに登場する占星術の学者は「マゴス」と呼ばれる人々、「ペルシャないしバビロニア地方の祭司兼賢者で、占星術や夢占いなどをもよくした人」(佐藤研)である。ユダヤ社会では占いは禁じられていた。ヘロデでさえもひそかに呼び寄せたほどである。マタイのテーマの1つは「社会の中で差別されている人びとと主イエスとの出会い」、ユダヤの社会の中で認められてもいなかったマゴス達が幼子イエスの前に最初に拝むことを許されたのである。主イエスは私たちが「持てないもの」(あるいは持たないもの)をすべてご存知で、私たちの重荷や労苦を担うがためにお生まれになったのだ。学者たちは、星によって導かれるままにユダヤの国へ来たが、どこにお生まれになったかはわからなかったのは不思議である。ただ彼らは星を見て喜びにあふれたとある。そしてユダヤの人々にきいてわかった家に着くや否や幼子をひれ伏して拝んだのである。私たちも救い主に出会った時があったが、その喜びが小さくなってきていないだろうか?それを打開する方法は一つ、神が救い主をお与えくださったこのクリスマスの事実を周りの人々にも伝えていくことである。目的の場所まで導いてきてくださるのだという確信と、私たちが普段の生活の中で、他の人々とのかかわりの中で、私たち自身が誰かの「星」になっていきたいと思いながら、2024年の扉を開けよう。

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「平和の君の誕生」イザヤ9:1-6 中村吉基

2700年前預言者イザヤが「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とイエスの生誕を預言した頃のイスラエルは、アッシリアに侵略され非情で残忍な支配をされており、「闇の中を歩む民」であった。故にイザヤの言葉に耳を貸す人はいなかったが、イザヤは「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」がおうまれになり、神は深い喜びをお与えになり、人々は喜び祝う、と続ける。その700年後、羊飼いのところに「ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」と天使が告げる。「自己中心」という深い闇の中にいる私たちのために、光と調和をもたらすために来てくださった。神は世界の平和の実現のためキリストを通してお与えくださったのがクリスマスである。「自分さえよければ」という思いを棄て、苦悩や悲しみを「神様、救ってください」と祈ってみよう。私たちは弱さを抱え、たとえ小さな力であっても神の平和が実現するように主イエスと共に歩もう。

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「先駆者」ヨハネ1:19-28 中村吉基

聖書にはイエスの誕生日は記されていない。古代教会でクリスマスが祝われるようになったのは4世紀からで、当時流行っていたミトラス教で冬至の12月25日を「不滅の太陽の誕生日」としていたが、キリスト教では「キリストこそまことの正義の太陽」としてこの日を主の降誕日とした。「その日」に「義の太陽」がこの地上の全てを癒すという預言者マラキの言葉もある。さて今日の新約の箇所は「ヨハネは一体誰か?」である。ローマ帝国の支配下で重税や差別に苦しんでいたユダヤの民がメシアを待ち望んでいた時に現れたのがヨハネである。荒れ野で神の言葉を受け、神に立ち返るようにヨルダン川で洗礼運動をしていたヨハネに人々は期待をもって質問するが、ヨハネは自分がメシアでもエリヤでもあの預言者(モーセと考えられる)でもなく「私は荒れ野で叫ぶ声」と答える。これはイザヤ書からの引用とされるが、ヨハネは「後から来られる方」「光(イエス)について証するために」神に遣わされた証し人だと名乗る。私たちも現代においてヨハネと同じ使命を神から頂いている。救いを求めている人に「光」であるキリストを伝え、神が主イエスを救い主としてお遣わしになったクリスマスを祝うことで、洗礼者ヨハネのように「光を証し」していこう。

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「神の言」列王記上22:6−17 中村吉基

北イスラエルの7代目の王アハブは400人もの預言者を集めてラモト・ギレアドをアラムから奪還する戦いをするかを尋ねる。しかしアハブには攻める気しかなく、そこにいた預言者たちも忖度してアハブの喜ぶ言葉を伝える。神の言ではなく人の言である。協力を依頼されたヨシャファト王は他に預言者がいないか尋ねる。そして「いつも災いばかり預言する」ミカヤが呼ばれる。使いのものに言い含められたミカヤは他の預言者と同じようなことを言うが、その後戦争に負け、死を迎えるということ伝える。「神の言」に聴くということは積極的に厳しい言葉にも耳を傾けなければならない。今、世界の指導者を見るときにも「強さ」を前面に掲げて力のない人たちを切り捨てていく現実がある。「平和を実現する」営みとは、神の言に真摯に聴いて、神の時に、神の世界に飛び込むことである。アハブ王が願った「人の言葉」ではなく、「神の言」に従っていきたい。

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「人の心に刻まれる契約」エレミヤ31:27-34 中村吉基

若くして預言者となったエレミヤは、その若さゆえかあまり人に受け入れられず、神を恨んだりもするが、神はエレミアを支え用い新たな方向に民を導く。エレミアがその使命を受容していく姿はイエスの受難の姿とも重なる。2人には、自らの道を進むことによって人間を何としても救いへと導こうとする「愛」を感じる。今日の箇所でエレミアの言う「新しい契約」とはモーセによって結ばれた契約をイスラエルの民が破棄したため再び結びし、石ではなく人の胸に授けられ心に記されたのである。この契約の基盤は「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」で、いわば「神の親宣言」である。そして「小さき者も大きい者も」とあり、貧富、性差もなくひとりひとりが大切にされるとある。そして「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」と続き、過去の不義を帳消しにし、神と民の新しい関係を築くということである。今日の新約の箇所には「「キリストは新しい契約の仲介者」とある。神が送ってくださったキリストが私たちの新しい契約の完成者である。このことを信じて来週からはじまる待降節を迎え、希望を持っていきたい。

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「子どもをしゅくふくするイエスさま」イザヤ11:6-8 マルコ10:13-16 中村吉基

(子ども祝福礼拝で教会学校と合同礼拝)預言者イザヤは今日の箇所で驚くべきことを言っている。こんな光景を私たちは知らない。私たちのまわりには「強い人」と「弱い人」がいる。豊かさ、健康、才能…その時の状況とあわせて立場は変わる。弱い人は苦しく、強い人にあわせて生きていくのはつらいことだ。しかしイザヤはそのように安心して毎日を過ごせる平和な日々が来るだろうと、そこに神さまの栄光が輝くという日が来ると伝えた。さて今日の新約の箇所はイエスのまわりにたくさんの人が集まっていた。中には子供の病を治したい親もたくさん集まっていた。弟子たちは叱ったが、イエスは優しく子ども達を招いた。もうすぐクリスマス。神のひとり子イエスさまは私たちの世界に来てくださった。神さまが私たち人間という弱い者に合わせてくださったということだ。私たちもそれを知り、他の誰かのペースに合わせてともに生きることができれば幸いである。

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「朽ちないもの」コリントI15:30-53 廣石望

キリスト教は復活のキリストを頭とする「死ねる者たち」と「生ける者たち」の両方から成る共同体である。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し」という対比で始まる今日の箇所は、キリストの運命こそがすべての人間の運命にとってモデルないし雛形というパウロの言葉である。近代以降の私たちに他者との命のつながり、ましてや失われた命との交流は可能だろうか?これに対してパウロがもっているイメージは「死者は復活して(/起こされて)朽ちない者とされ、私たちは変えられる」とあるように「変身」である。それ以降も読むと私たちと死者たちの交流が新しく回復されることが含まれる。神の裁きを介して新しく創られ解放される。「朽ちないもの」とは神による和解の達成、それを信じる私たちの死者たちへの連帯、またこの世で傷つけられている小さな命のための祈りである。

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「真実は勝つ」使徒26:24-32 中村吉基

今週10月31日は宗教改革記念日、ルターの「95箇条の提題」を記念する日であるが、もう1人の旗手ジャン・カルヴァンの教会で用いられた「ジュネーブ詩編歌」を中心に礼拝を構成している。現代はカトリックとプロテスタントがかつてないほど大きく歩み寄っていて、宗教改革記念日を憶える教会が減っているともきくが、いつでも原点に帰る必要がある。今日の箇所パウロはアグリッパ王の前で弁明している。全身全霊で真実で理にかなったことを話したパウロは無罪を認められたが、ローマに渡り、そこでまた2年をすごす。その間各地の信徒へ手紙を書き「キリストの十字架の死によって神と人間は和解したのだ」と送る。かつてキリスト者を迫害すしていたが、復活のイエスに愛真実を知った。キリストの十字架を心に信じる信仰が有れば神は救ってくださる、パウロの中でこの福音は大きな喜びに変えられて行った。それと同じ信仰の喜びにルターやカルヴァンも気づき、プロテスタント教会に受け継がれている。パウロがどういう最期だったのかよくわかっていないが、パウロは知っていた、「真実は勝つ」と。

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「無からの出発」フィリピ2:6−11 中村吉基

2000年前の教会でも人間関係の問題が起こっていた。さまざまなキリストに対する思い、信仰心が原因であるが、パウロはキリストが揺るぎなくそこに宣べ伝えられているならば、喜びである。ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。たとえ今バラバラでもキリストへの信仰が私たちを一つにさせる、と獄中からの手紙に書く。そこから今日の箇所になるが、これは原始教会に伝わる「キリスト賛歌」(讃美歌)と理解していいだろう。ここを本田哲郎神父の訳で読むと新たな目が開かれる。これは「低みから働く神を啓示しているキリストの賛歌」であり、神と等しい生き方にこだわらず、ご自分を一旦「無」にされ、「僕」となられた。ここから私たちに教えていることは、「低み」にいたとしても、神はそこから必ずこの「私」を救い出してくださる「喜びの希望」ともいうべきものである。キリストが無になったお姿で人びとに仕えられ、十字架の死での無から復活の新しいいのちが神によって与えられたことを私たちの模範としたい。私たちには復活のイエス・キリストが与えられている。キリストにおいてこそ私たちは一つとなり、キリストを礼拝し、模範とした愛の生き方をする教会が神に心に叶った教会だとパウロは確信していた。

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「使徒言行録29章」使徒28:16-31 中村吉基

使徒言行録は聖霊言行録という人もあるくらい聖霊の働きが人や教会を働かせている。ペンテコステの日祈りの家にいた人は皆聖霊を受け、イエスキリストのことを伝えた。酔っていると思われもしたが、3000人の人が洗礼を受けた。原始キリスト教は苦難の連続であった。投獄や鞭打ち、死ぬような目にあうことも度々とパウロは書いている。それを乗り越える力を与えたのは聖霊であろう。当時としては驚きであった外国人伝道、ペトロにとっても抵抗があったものだが、神に咎められコルネリオに洗礼を授ける。パウロも3回もの外国人伝道をする。外国人伝道をすればするほどユダヤ人たちからは疎まれひどい目にあったが、福音のメッセージはすべての人を救いに導くということを伝えたかった。使徒言行録は28章で終わるが、使徒言行録」の最後に記されている言葉「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」のようにキリスト教はそこから2000年、神の国を延べ伝えてきた。私たちの教会もまたこの29章に連なり描いていかなければならない