「行動する人、しない人」使徒10:1−16 中村吉基

列王記上8:41−43;使徒言行録10:1−16

今日は使徒言行録の10章から聴きたいと思います。ここから一つのエピソードが描かれていきます。11章に至るまでの長いエピソード(10章1〜11章18節)です。今日の箇所はその最初の部分ですが、ここに出てくるコルネリウスという人は、「イタリア隊」と呼ばれるローマ市民で構成されていた補助部隊に属していた人でした。そして彼は「異邦人」(外国人)でした。元奴隷であったともいわれています。百人隊長をしていました。文字通り100人(ケントゥリア)を束ねる務めにありました。紀元69年ごろからシリアに駐留していたようですが、今日の舞台であるカイサリアに彼がいたかどうかは、他に資料がありません。

コルネリウスは2節にありますように「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」といいます。これまでユダヤ教に改宗するほどではないにしても、会堂に出入りして、ユダヤ人がするように祈りと施しをしていたことが分かります。ある時、コルネリウスの前に天使が現れます。その内容はヤッファというところに身を寄せているシモン・ペトロを招きなさいというものでした。なぜ神が天使を通してこのようなことを命じたかは分からない。しかしコルネリウスはそれに素直に従い、「2人の召し使いと、信仰心のあつい1人の兵士」をペトロのもとに送りました(7,8節)。

一方コルネリウスの使いの者たちが自分を迎えにヤッファに向かっていることなどペトロはつゆ知らずでした。この時、ペトロは不思議な経験をしました。ペトロがお昼に祈ろうとして屋上に上がると、11節以下のところですが、「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた」。あまりに突然のことでペトロは仰天するのです。しかも「ペトロよ、身を起こし、屠って(切り裂いて)食べなさい」と言う声がしました。しかしペトロは「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と言って、彼は頑固に断るのでした。神がお命じになっていることが「できない」と言うのです。

ペトロが断ったのは(旧約にある)律法に反するからでした。レビ記の11章などを見るとそれが分かるのですが、そこにはユダヤ教の厳密な「食物規定」が記されています。そこにはひづめが完全に割れており、反芻する動物でなければ食べられない。よって豚は禁止で、らくだや岩狸や野兎も同様でした。禿鷲など猛禽類、爬虫類、いなごなどを除く昆虫類なども汚れた物とされました。この中には私たち現代人が食べる習慣のないものも含まれていますが、清いものと、清くないものなぜそうなったかは分かりません。神は線引きをしないし、神は境目を作らないのです。いつでも分けるのは人間の側です。

私は以前ユダヤ人の人に聞いたことがあります。たとえば豚などは現在では清浄な環境で育てられて、餌も良いものを食べているのですが、少し前の時代までは家畜の排泄物などを食べていました。そういうところから神の宮である人間の身体に入れるのを禁じてきたのです。多くはイスラエルの先祖たちが語り伝えてきたものを守り抜いているのだと教えられました。このように現代においてもユダヤ教の人たちは厳格に食物規定を守り抜いています。ユダヤ教だけでなく、食べ物に関しての規定を持っている宗教は多いのです。むしろキリスト教はそれが少ない方だといえます(教派によってはユダヤ教の伝統を受け入れているところもありますが)。

また、以前アメリカに行きました時に滞在していたユダヤ教の施設のキッチンをお借りして、日本から持ち込んだカレーのルーでアメリカ人にカレーライスを振る舞おうとしたことがありましたが、ルーに含まれるスパイスの一つが禁じられているので、残念ながらそこでのカレー・パーティーは幻に終わったことがありました。しかし、こういった厳格な信仰の一端に触れる良い機会でもありました。

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私たちの信仰生活は「まさか……」ということの連続です。キリストに従う信仰の道を歩むと驚くことばかり経験します。ペトロにとってもこのようなことが起こるのは晴天の霹靂でした。そしてコルネリウスが天使を見た時、4節に「怖くなって」と記されています。こういう言葉を読み過ごしてはならないでしょう。それは神のみ姿を見ると死んでしまうと言われていたからに他ならないからです。またそれだけではない未知の経験を「今、ここで」していたからでもありました。

ペトロの話に戻りますと、彼に主がお命じになったことを拒むと、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声がしたのです。この声はペトロの転機になった言葉です。けれどもペトロはまだこの時、この声の意味を分かっていなかったのです。16節を見ますと、こういうことが「3度」あったと記されている。これはこの出来事を、この声を、絶対に忘れさせないための神の心憎い演出と言っていいと思います。これは神が「空腹で何か食べたいと思っていた」(10節)ペトロに見せた幻でした。

この物語は17節以下にずっと続いて行きますが、今日私たちがこの箇所から教えられることを挙げてみます。

まずこのコルネリウスとペトロの比較をしてみると、コルネリウスは神の使いのお命じになったことを素直に受け止めて、それをすぐさま実行しました。しかしペトロもペトロの信仰というものがあったのでしょう。彼はおそらく幼い時から守ってきたユダヤ教の慣習が身についていたのでしょう。私たちもそうです。身体で覚えてしまっていること、身体に染み付いていることをなかなか改めることができません。しかし彼は神を畏れずに、自分の守っていることを押し通してしまいました。今日の説教のタイトル、「行動する人、しない人」はまさにここから来ています。神のお命じになったことをすぐに行動に移したコルネリウスに対して、ぐずぐず言っていたペトロです。まずここに私たちの普段の行動を比較してみたいと思うのです。

第2にペトロに語られた言葉の本当の意味を考えてみましょう。この時、問題になっていたことは、ユダヤ人と異邦人との問題。ユダヤ人が外国の人たちの交際することは律法で禁じられていました。ましてや神の救いが異邦人に及ぶなどとは考えてもいないことでした。そうした中で、使徒たちのリーダーであり、ユダヤ人としてユダヤ人伝道を進めていたペトロに神が「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言われたのは、食物規定など律法に対して神の無効宣言です。ユダヤ人が異邦人を訪ねたり、一緒に食事をしたりすることは「良い」ことなのだということです。この後、コルネリウスの使いの者たちがペトロを迎えにきて、彼の家に行って福音のメッセージを語ります。コルネリウスという異邦人と交流することを通して、ペトロは神が幻の中で語ったことの意味を悟りました。

最後に「あなたは言ってはならない」というところです。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」。これは神が私たちにも語っているみ言葉です。私たちは自分の中で「ねばならない」という「律法」を作っていないでしょうか。先入観を持って人を見ていたり、「どうせ……だから」と最初から結果を決めつけて行動に移さないのではないでしょうか。

神は、いつどのような仕方で私たちに語りかけてくださるか分かりません。神に、キリストに招かれた皆さん一人ひとりも一人としてこれまで歩んできた人生の旅の中で、同じ出来事がないように、神はあらゆる手段、方法を駆使して、みなさんという一匹の羊を迷いださせないように救いだしてくださいました。

私たちは神に命じられた時にすぐに立ち上がることができるでしょうか。行動することができるのでしょうか。今日の箇所を通してそのことが私たちに問われているのです。