「恐れるな。語り続けよ」使徒18:1-11 中村吉基

エレミヤ書29:10-14;使徒言行録18:1-11

私たちが普段の生活を送る中で、何でもうまく事が運ぶ時と、そうでない時があります。調子がいいと言うのでしょうか。トントン拍子に事が運んでいく時、また逆に何をやってもうまくいかない時があります。

旧約聖書のコヘレトの言葉3章には、私たちには神によって、さまざまな「時」が備えられているのだと記されていますが、決して今、うまくいかないからといって神が皆さんのことをお見捨てになったとか、そういうことではないのです。

使徒言行録が伝えるところによれば、最初の教会の時代、使徒たちを中心とした人びとの宣教はたくさんの人をキリストの福音に招くことに成功したといってよいかもしれません。中にはステファノの殉教というような悲しく辛い出来事はありましたが、しかしたくさんの信徒が日ごと増し加えられていったことは確かです。けれども本当のところ、初代教会の人たちは順風満帆ではなかったのです。

パウロによる広範囲での宣教が始まりましたが、最初は決して実り豊かなものにはなりませんでした。さっそく今日の箇所の5節の後半から8節のところを読んでみましょう。

5b パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。6 しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」7 パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。8 会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。

パウロは生涯に3回にわたる大伝道旅行を試みましたが、これは第2回目の時のコリントでの伝道での様子を伝えています。もともとメシアを待ち望んできたユダヤ人に対しての宣教がなされますが、「彼らが反抗し、口汚くののしった」とある通りそれは受け入れられませんでした。この6節の終わりにパウロが「服の塵を振り払」うという行為が描かれていますが、パウロも「ムッ」としてしまったのです。ここを離れて他へ行こうとする仕草です。
同じ使徒言行録の13章51節にも「足の塵を払い落とし」という似た表現が出てきます。私たちはこんなことしませんけれども、当時の人たちの間では決定的な決別を意味する行為でした。

思えば主イエスも、マルコによる福音書6章11節などで宣教に行く際に、
「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」と
言っています。

パウロはユダヤ人への宣教を諦めてそこを去ったわけです。
そこで「捨てる神あれば、拾う神ある」などと表現は間違っているかもしれませんが、今度は異邦人のもとに宣教にいくのですが、そこでは割とすんなり受け入れられたのでした。パウロは「神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った」とありますが、この人はパウロの協力者として、彼らのお家をその拠点として開放していたのでしょう。しかもそのお家はユダヤ教「会堂の隣」にあったというのですから人が集まってくる好立地にある所だったと考えられます。

ここで少し考えてみたいのですが、パウロという人は、かつてはユダヤ教の指導者でした。ですから同じユダヤ人には何が何でも福音を信じてほしい、
と思っていたはずです。しかし同胞のユダヤ人からは総スカンを食らって、皮肉なことに異邦人の人びとに福音が受け入れられていきました。

パウロはユダヤ人に福音を受け入れてもらえなくて、かなり落ち込んだだろうと思われます。傷心の思いとでも言うのでしょうか。当初彼が思い描いていた計画とはだいぶ軌道修正を強いられたわけです。どうしていいかわからなかったはずです。

私たちにもこういうことがあります。
「想定外」の出来事というのでしょうか。まさか思ってもみなかった方向に事態が動いていくということが、私たちの人生に繰り返し起こってきます。
しかし、神はそのまま私たちを捨て置かれないのです。
ではパウロはこの前と後とではどうなっていったのか。
今日の箇所に基づいて見ていきましょう。
まず1節です。
「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った」。
何があった後の「その後」なのか、それはギリシアのアテネで宣教しましたが、ここでもうまくいかなかったのです。
意気消沈したパウロは、心機一転今度はコリントに来たのでした。
しかしここでも先ほどお話ししたように皆さんご存知の通りです。
けれどもここで神が不思議な仕方でパウロを導いていきます。4つの点からここを読んでいきたいと思います。
まず第1番目は2節以下のところを見てみましょう。

ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。
クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。

コリントでまずパウロが出遇ったのはアキラとプリスキラという名の夫妻でした。パウロと同じユダヤ人でテント造りを営んでいたこともパウロと同じでした。パウロはこの夫妻の家に住み込みます。そしてテント造りを助けながら、ここを拠点として宣教に励みます。

第2番目です。
5節をご覧ください。
シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。

シラスとテモテと言う人たちがパウロの弟子となって彼の宣教を助けます。
このことで再びパウロは力を得て、宣教に専念します。これまではテント造りも手伝っていたわけですが、いよいよ彼は福音宣教一本で働き始めることができました。

第3番目です。
先ほどもお話ししましたが、ティティオ・ユストという協力者が現れ、会堂長をしていたクリスポという人は一家をあげてキリストを信じて、この人たちも仲間に加えられました。残念ながらパウロの思い描いていたユダヤ人への宣教はうまく行きませんでしたが、ここではたくさんの異邦人を救いに導くことができました。
8節の終わりに「コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。」と記されてある通りです。

そしてこの箇所は神の力について第4番目に記します。
パウロははっきり記されていませんが、おそらくここで神に祈ったのです。
1度や2度ではなかったことでしょう。もう何度も、何度も、何度も神に「苦しいのだ」と叫びを上げたことでしょう。
コリントでの異邦人への宣教は実を結びましたが、当初彼が思い描き、祈りにも憶えていたユダヤ人たちとは膠着状態にあり、ユダヤ人たちはパウロを憎んでいました。そのような時に神はパウロに語りかけられます。

9節の終わりから神の言葉が語られます。
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

安心しなさい。わたし(神)がいつも一緒にいるじゃないか。その事をお前は忘れたのか?
神はこう言われたのです。
宣教がうまく行かなかった前後に、ユダヤ人の夫妻に出遇ったり、協力してくれる人たちが与えられたり、すべてここまでの道は神が見守っていてくださいました。パウロは自分のほうから「神なんていない」と思ったことがあったかもしれません。
でもそんな時にも神は黙って、沈黙しながら導いてくださっていたのです。

「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。 わたしがあなたと共にいる」。

うれしい言葉です。パウロが信じてやってきたことは間違いではありませんでした。
神がパウロの存在を肯定してくださる言葉を語りかけてくださっています。
そして「わたしがあなたと共にいる」とはかつてモーセにもエレミヤにも召し出しの時に神がお語りになられた言葉と同じです。
パウロはこの神の力強い宣言とも言える言葉によって心と身体にみなぎる力を与えられました。この後、「一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた」パウロでした。

神はパウロに「恐れるな」とおっしゃいました。なぜでしょうか? 簡単なことです。
パウロが毎日の生活を恐れていたからです。なぜ「語り続けよ」と神はおっしゃったのか? パウロは語れないほど心神喪失状態だったからです。
神はなぜ「黙っているな」とおっしゃったのか? パウロは一言も声を発することができなかったからです。あの大伝道者と言われ、最初のキリスト教信仰の基礎を築いた彼でさえ、こんな壁にぶつかっていました。

おそらく皆さんもいろいろな問題にぶつかり、目の前に壁が立ちはだかっている事でしょう。何にも悩みなく、すべてがうまく事が運んでいる人なんていないでしょう。そういう時はきっと神が「共にいてくださる」ことを私たちが忘れている時です。主イエスの別名をご存知でしょう クリスマスになるとよく聞くでしょう。「インマヌエル」(神は私たちと共にいてくださる)と呼ばれると天使が告げました。クリスマスだけこの言葉を思い出さないでください。この暑い夏にもインマヌエルの神は私たちに同伴して、たとえ沈黙しているとしか思われない時にも寄り添ってくださいます。

今日は平和聖日の礼拝をご一緒に捧げています。第2次大戦中に私たちの日本基督教団は国の政策によってプロテスタントの33の教派が合同させられていましたが、特にその中でもホーリネス系の旧日本聖教会、旧きよめ教会の方々には厳しい弾圧が行われました。日本のキリスト教の歴史の中でプロテスタントにおいては最大の迫害といってよいと思います。134人の多くは牧師でしたが、逮捕、検挙されました。日本基督教団の他の教会はこの人たちを助けるどころか、簡単に見捨ててしまいました。当時の教団の幹部はこう言っています(不適切な表現があります)。
「彼らの熱狂的信仰は我々教団では手の下しようもないくらい気違いじみているため、これを御当局において処断して下さったことは、教団にとり幸いであった。」(ママ)
こうして彼らの教会は解散させられ、牧師も信徒たちも散り散りになりました。何人もの牧師が獄中で命を落としました。検挙者の一人に蔦田二雄(つただ・つぎお)という牧師がいました。彼は巣鴨刑務所の独房の中で、孤独と向き合いながら、それでも「神が共にいてくださる」という信仰を確信していました。そしてもし自由の身になったならば、神と人とのために新しい教派を作りたいという希望も与えられていました。蔦田は戦後自由の身になった時に、福音の伝道と医療奉仕をする新しい教団を興して、その名に「インマヌエル」を冠して(イムマヌエル綜合伝道団)活躍しました。

私たちの日本基督教団は1967年に鈴木正久議長の名前で、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白(戦責告白)」を公にしていますが、その中で、こういう一節があります。

「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。

私たちの教会の信仰の仲間であった鈴木伶子さんは2年前の今日、神さまのみ許に召されました。伶子さんは鈴木正久牧師の長女です。私は先日伶子さんがあるところに寄稿された一文を見つけました。そこにはこう書かれてありました。その一部をご紹介します。
「罪を繰り返さない・・・・・・戦後日本のキリスト者が神社への参拝を受け入れ、韓国のキリスト者にも神社参拝をするよう「説得」したとき、アジアの近隣の多くの人々が殺されていきました。「神だけを神とせよ」「隣人を愛せよ」と教え二つを同時に破ったのです。私たちは戦後その罪を告白しました」(『いま憲法9条を 宗教者は語る』)。

沈黙は罪です。見て見ぬふりをしてはなりません。戦時中の教会は「『見張り』の使命をないがしろに」してしまった教会だと戦責告白は告げています。私たちはペトロやパウロの時代に始まって連綿と「平和の福音」を告げ知らせてきた教会です。
神は、今、私たちにこう言われます。
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」。