インマヌエル一覧

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「平和の君の誕生」イザヤ9:1-6 中村吉基

2700年前預言者イザヤが「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とイエスの生誕を預言した頃のイスラエルは、アッシリアに侵略され非情で残忍な支配をされており、「闇の中を歩む民」であった。故にイザヤの言葉に耳を貸す人はいなかったが、イザヤは「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」がおうまれになり、神は深い喜びをお与えになり、人々は喜び祝う、と続ける。その700年後、羊飼いのところに「ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」と天使が告げる。「自己中心」という深い闇の中にいる私たちのために、光と調和をもたらすために来てくださった。神は世界の平和の実現のためキリストを通してお与えくださったのがクリスマスである。「自分さえよければ」という思いを棄て、苦悩や悲しみを「神様、救ってください」と祈ってみよう。私たちは弱さを抱え、たとえ小さな力であっても神の平和が実現するように主イエスと共に歩もう。

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「恐れるな。語り続けよ」使徒18:1-11 中村吉基

アテネで伝道がうまくいかなかったパウロはコリントにいたユダヤ人への宣教もうまくいかない。イエスをメシアと認めないユダヤ人に口汚く罵られ服の塵を振り払って異邦人へ伝道することを決める。異邦人の人々に福音は受け入れられたが同胞のユダヤ人とは膠着状態にあったパウロは苦しかったはずである。そんな時神はパウロに「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」と語りかける。これは神が「共にいてくださる」ということである。今日は平和聖日、第2次大戦中キリスト教会は国策によって合同したが、厳しい弾圧にあった教会もあり、逮捕・検挙された牧師もたくさんいた。教団には、そんな彼らを見捨てた歴史がある。戦後鈴木正久によって、正しい判断ではなかったという戦責告白を公にした。沈黙は罪である。私たちはペトロやパウロの時代に始まって連綿と「平和の福音」を告げ知らせてきた教会なのである。

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「キリストの名によって」使徒3:1-10 中村吉基

エルサレムの神殿の「美しい門」で物乞いをしていた生まれながらに「足の不自由な男」は、神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていた。決して門の中には入れなかった。そこを通ったペトロとヨハネは「金や銀はないが」と前置きし、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言うと、その男は歩き回り、神を賛美し、一緒に境内に入り神を賛美した。施されたものが金と銀であればその男の当面は潤ったかもしれないがまた尽きれば元通りである。しかし使徒たちは、「イエス・キリストの名によって」永遠の救いを約束した。今日の箇所が教えていることは、金と銀ができることには限界がある、それには頼らずイエス・キリストを信じ、模範として生きることが大切である。私たちがすべきことは「キリストの名」を人びとに与えることが、教会がなすべきことである。

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「インマヌエル」マタイ1:18-25 中村吉基

引き続きマタイから、今週はヨセフである。いいなずけ(12,3歳頃に約束される)であったがマリアの懐妊のを知り「戸惑い」「考え込」んでしまう。なぜなら当時の律法に反してしまうからである。しかし夢で天使の言葉をききヨセフはマリアを妻として迎える。これは神のご計画であり、普段から神への信頼を篤いマリアとヨセフも選ばれたのである。このヨセフの決断によって、私たちは主イエスをインマヌエルと呼ぶことができる。夢の言葉は、今の私たちにも語られている。主イエスはいつも私たちと共にいてくださる。争いや貧困などで今よりも一人の子どもの小さないのちが誕生するのにしてもさまざまな困難があった。その中でヨセフとマリアに喜んで受け入れられた命を心に刻み感謝と喜びをもって救い主イエスをお迎えしよう。