「平和の君の誕生」イザヤ9:1-6 中村吉基

イザヤ書9:1-6;ルカによる福音書2:1-20

皆さん、2023年のクリスマスおめでとうございます。

現代に生きる私たちは2000年前に起こったクリスマスの出来事をどのように受け止めたら良いのでしょうか。今日最初に読んでいただいた旧約聖書の預言者イザヤの時代は今から2700年以上も前、紀元前733年ごろのことです。大国アッシリアが侵略し、北イスラエル地方を占領しました。非情で残忍な大国の支配に踏みにじられ、略奪され、滅びの危機に陥った当時のユダの民の現実はまさしく「闇」でした。この地に住む人々は「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者」でした。大国の支配者・権力者が民衆を圧迫していました。そのことのゆえに苦しみ、差別され、泣き叫びそしていのちを奪われていったのです。ユダの民は、そんな真っ暗闇の中にいました。大国が国中をめちゃくちゃに踏みにじり国土は荒れ果てます。苦しい時に神頼みをする人もあれば、神に背を向ける人もいます、彼らの場合は後者で人々はついに神のことが信じられなくなったのです。

そんな真っ暗闇のイスラエルに預言者イザヤが立ち上がります。そしてイザヤは「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と告げるのでした。人々からすればこれは信じられないことでした。イザヤは、イスラエルが直面する苦難の現実のただなかで救いを預言するのです。真っ暗闇の中を私たちは歩かなくてもいいのだ、なぜなら、私たちの上には光が輝いているからだと言うのです。

しかし、イザヤの言葉を聞いた人々が、あたりを見回しても、どこにも光なんて輝いていません。誰も光を見ることはできませんでした。なおも真っ暗闇の中で過ごさなければならないのです。人々がイザヤの預言に耳を貸すわけがありませんでした。しかしイザヤは語り続けたのです。あなたたちの上に光が輝いたと神から預けられた言葉を伝えたのです。

それだけではありません。イザヤは「あなた(神)は深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。」と神をほめたたえるのでした。これはどういうことでしょうか。
その理由は、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」ことにあります。イザヤは「ひとりのみどりご」の誕生を預言します。その「みどりご」の誕生によってアッシリアの支配に終止符が打たれるというのです。それでは、この生まれてくる「みどりご」とは誰を指しているのでしょうか。「その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる」。生まれる「男の子」について「力ある神、永遠の父」と呼んでいるのです。これまで人々は、数ある王様・指導者にこの世の中の現実をきっと変えてくれるだろうと期待をしていました。しかも、このみどりごは「平和の君」と呼ばれて軍事力によって勝利を得るのではなく、戦争そのものをやめさせてしまうような完全な平和を地上にもたらすのだと、メシアの誕生をイザヤは「闇を照らす光」として預言したのです。力のない弱い民衆たちが踏みにじられていく闇の時代に、このひとりの幼な子は「私たちのために」生まれた、「わたしたちに」与えられたのです。つまり、もう心配することはない、「神がわたしたちと共にいてくださる(インマヌエル)」ということを告げて人々に希望をもたらしたのです。「私たちに救い主メシアが与えられる」「その救い主はいつも私たちと一緒にいてくださるお方だ」というイザヤの預言は親から子へ、子から孫へ連綿と伝えられていきました。
そしてイザヤが「光が輝いた」と告げてから700年が経って、ついに救い主がお生まれになったという知らせを聞いたのは羊飼いたちでした。

ルカによる福音書の2章8-11節には、

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。

と記されています。

「あなたがたのために」、つまり私たち人間のためです。皆さん一人ひとりのために、救い主が来てくださったのです。「自己中心」という深い闇の中にいる私たちのために、光と調和をもたらすために来てくださったのです。神の約束がクリスマスの700年も前から、そして現代の私たちにも語りかけられるのです。神は殺伐としたこの世界に危険を冒してまで、来てくださるという約束です。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」のです。

さて、今日の聖書やこの後歌う讃美歌の歌詞にも出てきた、イエス・キリストがお生まれになった「ベツレヘム」はいったいどのようなところなのでしょうか。私たちは今、毎日テレビや新聞やあるいはインターネットなどの報道で「イスラエル」「パレスチナ」のことを見かけない、聞かない日はないと思います。長い歴史の中で世界各地に離散していたユダヤ人が19世紀後半、続々とパレスチナに戻ってきました。しかしパレスチナには既にパレスチナ(アラブ)人が住んでいて双方で衝突が起きました。1947年に国連がパレスチナ人とユダヤ人国家(イスラエル)に分けて今日に至っているのですがこれが歴史と民族と宗教が複雑に絡み合って何度も和平が踏みにじられ、そのたびに侵略や侵攻そしてミサイル攻撃や自爆テロが相次いでいるのです。

『瓦礫(がれき)の天使』という一つの短い童話をご紹介したいと思います。

このお話にはサミィというパレスチナ人の少年が出てきます。ベツレヘムに住んでいました。あるときサミィはイスラエルの大きな戦車にめがけてガラス瓶を投げます。その瓶は命中して粉々に砕け散りました。サミィは隠れている建物の影で小さくガッツポーズを作りました。イエス・キリストが平和の君としてお生まれになったベツレヘムではこのような光景が珍しくありません。たくさんの兵士や戦車が町にあふれ毎日のように戦いを繰り返しているのです。

サミィはこの町で生まれ育った10才の少年です。本来ならは学校に通っている年頃です。しかしサミィは戦車や兵士に隠れて毎日ガラス瓶を拾い集めています。彼は集めたガラス瓶を戦車に投げつけて兵士に怪我をさせようとしていました。

あるクリスマスイブの日、家族で教会に向かう途中、突然現れた戦車が立ちはだかりました。サミィの両親は、彼らを守ろうとして、戦車の下敷きになってしまっていのちを落としてしまったのでした。父親のいのちを奪い、また友達の足を奪った兵士たちにサミィは仲間の子どもたちとガラス瓶を投げて、仕返しをすることにしたのです。最初はみんなで石を投げていましたが戦車はビクともしませんでした。

ある日年上のヨシュアからガラス瓶を使えば砕け散った破片が戦車の中まで飛んで兵士の目や顔を傷つける事ができると聞いたのです。またおとなたちは火炎瓶を作って投げています。サミィも火炎瓶の作りかたを教わりましたが怖くなって止めました。「人殺しにはならないでくれ」と父親の声が聞こえるような気がしたのです。

空き瓶爆弾なら当たった時の音も気持ち良いし、相手を殺してしまう事も無いでしょう。「これくらいはしなきゃいけないんだ」そう自分に言い聞かせて毎日瓶を投げていました。一日の闘いが終わってサミィが帰ろうとすると、戦車が行ってしまったあとに腰をかがめて何かを拾い集めている大人がいました。
その人は砕けたガラスのかけらを集めていました。もしかしたらもっと強力な武器を作るのかもしれないと思い、サミィは建物の影からその人に声をかけました。その人はゆっくりと立ち上がりながらサミィの目をまっすぐに見つめました。サミィは聞きました。「拾ったガラスのかけらでどんな武器を作るの?きっと強力なやつなんだろうね」。

「そうだねぇ・・・・・・とっても強力な武器だ!」
「すげぇーどんな武器? ぼくにも作れるかな?」
「人の内側に炎を燃やす武器だ。君にもきっと作れると思うよ」
「教えて!手伝うからゼッタイ教えて!」
「じゃぁ、まず通りに散らかっているガラスを集めておくれ」

サミィは一生懸命その中にガラスのかけらを集めて行きます。道路には毎日のようにみんなが投げたガラス瓶のかけらがいっぱいあって簡単に集めることができました。中には尖がったところに血のついたガラスもたくさんありました。

「おじさん、これ見てごらん。砕けたガラスが兵士をやっつけたしるし!」
サミィは血のついたガラスを誇らしげにおじさんに差し出しました。しかし、おじさんは傷ついているのは兵士だけではなく、ガラスのかけらで足を切ってしまった女性たちや道で転び血だらけになった子どもたちもいることをサミィに話しました。そしてサミィは黙り込んでしまうのです。

「さぁ武器を作るぞ!ついておいで」
「おじさんの作る武器は兵士じゃない人たちを傷つけたりしない?」
「大丈夫、誰も傷つけない武器だ」
国際センターと書いてあるその場所はベツレヘムの中で最も貧しい人たちがさまざまな助けを求めて集まる場所でした。その人たちが机に向かって何か作っています。よく見るとガラスのかけらを棒のような物でつなぎ合せています。「これが誰も傷つけない武器だよ」とおじさんが渡してくれたのは瓦礫のガラスをつなぎ合わせたステンドグラスの天使でした。

天使を光にかざしながら目を閉じたサミィにお父さんの声が聞こえました。「かわいいサミィ、愛しているよ。もう誰も傷つけないでおくれ。そして平和な町になるように働いておくれ」
「おじさん、この武器はどうやって使うの」
「兵士たちも武器を持っていない子どもには銃を向けない。休息している兵士たちに君達がこの天使をプレゼントしてあげるんだ。『もうガラス瓶を投げるのは止めます。これからはだれも傷つけない方法で平和をつくります。』って言ってね」
「そしておじさんたちは世界中の仲間にこの天使を送り続ける。この小さなまちで戦争が起きていること。たくさんの子どもたちが悲しんでいることを大勢の人にわかってもらうためにね」
「武器を持たない小さな弱い人たちの『平和が一番』という声が集まってこの町全体を包み込んでしまうまでね」
「おじさん ぼくも手伝うよ。おとうさんもそうしなさいって言っている気がするんだ」
「ほら、今君の心に炎が燃え上がっただろ」「この炎が武器も戦車も争う心もみんな燃やしてしまうんだ」この日からサミィのあたらしい闘いがはじまりました。

かつてベツレヘムにあるクリスマス福音ルーテル教会の牧師を務めたミトリ・ラヘブさんはパレスチナのアラブ人です。来日されて各地の教会で講演されたこともあります。その際にはガラスの破片で作られた天使たちもたくさん日本の人たちの手に渡りました。ラヘブ牧師はイスラエル人とパレスチナ人という2つの民族の間で、またユダヤ教、キリスト教、イスラム教という3つの宗教の仲介者として、和解の道を探し続けておられる牧師です。イスラエル軍侵攻で壊された家々のがれきから拾ったガラスで、ステンドグラスの天使を作り。収益で女性たちの職業訓練や子どもの教育を進めるなど、紛争が続くパレスチナで宗教を超えて平和を作り出す営みを始められた方です。12月10日の「朝日新聞」には、かつてラヘブさんが働かれたこの教会の中に、イスラエルによって破壊されて出たがれきに赤ん坊の主イエスの人形が寝かされているという飾りが置かれていることが報道されました。がれきの中に主イエスがお生まれになったのです。今年、パレスチナの人たちにとってはクリスマスの祝いどころではない状況が続いていることは皆さんもご承知のことだと思います。しかし、その赤ん坊のイエスの人形の頭上には光が灯されているのです。これは神の光、希望の光です。私たちは希望を失うことはありません。聖書には「希望が失望に終わることはありません」(ローマ5:5、聖書協会共同訳)とあります。

神は世界の平和の実現のため、また私たち一人ひとりを「自己中心」の罪から救うためにイエス・キリストを送ってくださいました。神は完全な平和(シャローム)を、キリストを通してお与えくださったのがクリスマスです。皆さん一人ひとりにもさまざまな悲しみや苦悩や問題を抱えておられることでしょう。もしそうであったら今日、「神さま、救ってください」と短いこの言葉を祈ってみてください。必ず神は素直に救いを求める人に平和を与えてくださいます。そして「自分さえ良ければ」という思いを平和の君・イエス・キリストを仰ぎつつ、今、ここで棄てたいと思うのです。そして私たちは弱さを抱え、たとえ小さな力であっても神の平和が実現するように主イエスと共に歩みましょう。そうして新しく迎える2024年が本当に愛に満ち溢れた日々でありますように、互いに愛し、助け合いながら進んでいきましょう。

(画像)朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20231219000274.html

(祝福)
平和のうちに行きましょう。
御子を顕された神が、あなたがたを守ってくださいますように。
ご自身のもとへ招いてくださったキリストがあなたがたを、愛を行う者へと変えてくださいますように。
いつどこでも働かれる聖霊があなたがたを安心に満ちた場所へと導いてくださいますように。
今も、いつもとこしえに アーメン。