ルカによる福音書一覧

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「平和の君の誕生」イザヤ9:1-6 中村吉基

2700年前預言者イザヤが「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とイエスの生誕を預言した頃のイスラエルは、アッシリアに侵略され非情で残忍な支配をされており、「闇の中を歩む民」であった。故にイザヤの言葉に耳を貸す人はいなかったが、イザヤは「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」がおうまれになり、神は深い喜びをお与えになり、人々は喜び祝う、と続ける。その700年後、羊飼いのところに「ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」と天使が告げる。「自己中心」という深い闇の中にいる私たちのために、光と調和をもたらすために来てくださった。神は世界の平和の実現のためキリストを通してお与えくださったのがクリスマスである。「自分さえよければ」という思いを棄て、苦悩や悲しみを「神様、救ってください」と祈ってみよう。私たちは弱さを抱え、たとえ小さな力であっても神の平和が実現するように主イエスと共に歩もう。

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「承認から証人へ」ルカ24:36-48 中村吉基

今日の箇所に「あなたがたはこれらのことの証人となる」とある。2000年以上前のイスラエルであった主イエスの復活を私たちが知っているのも、直接見た弟子たちに始まり「復活のキリストの証人」となった人々の「証言」が伝えられたからである。「その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」の中の「あらゆる国の人々に」は大切である。主イエスは全ての人と一緒にいてくださる。つい人を選んでしまったりするような醜い心を清めるのが聖霊である。私たちはもっと聖霊の働きを感じなければならない。十字架の後、喪失感と混乱の中にあった弟子たちは、はじめは信じられなかったが食事をとるイエスを見て復活がわかり、喜びの頂点に達した。「使徒言行録」に記されているようにたったの11人で「すべての人」に福音を伝えた。主イエスは今も、私たちを世界中に遣わされようとしておられる。普段の生活での悩みをうちあけてすっきりする場合があるが、自分の気持ちだけを考えていてはいけない。また遠くでおきたニュースをきいても何もできないと思ってはならない。祈ることや、声をあげることはできるはずである。11人の弟子たちが始めたように、私たちも重い腰を上げなければ何も広がっては行かない。礼拝はイエスの出来事を直接見聞きした弟子たちの「証言」を聞く場所である。一人ひとりが聖霊からの力を受け、教会を形成し、宣教に出かけていこう。

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「心が燃える経験」ルカ24:13-35 中村吉基

ルカによる福音書の終わりの部分である。クレオパともう一人が出会った旅人にナザレのイエスの遺体がなくなったことを話すと、その初対面の「旅人」にバカよばわりされ、教えをうける展開となる。そしてエマオで彼を無理にひきとめ食事をしている最中に、イエスだとわかったが、その時イエス姿は見えなくなった。その後2人は「心が燃えていた」という体験について話し合う。私たちが信じている神は高いところに鎮座しているものではなく、私たちの只中に近づいてこられる。礼拝では最初に招詞がある。辛い現実から集められ、み言葉を通して、主イエスから福音を告げられて 励まされて、そうして時にパンを割いてご自分を渡し、私たちのうちに共にいて下さる。復活の主に出会えるのが礼拝、礼拝には力がある。このことに気づいて、共に喜ぶことのできる礼拝者でありたい。

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「わたしを思い出してください」ルカ23:35-43 中村吉基

ゴルゴダの丘の上の3本の十字架のうち2本は悪事を働き死刑宣告を受けた二人の罪人もので、もう1本はイエスのものであった。罪人のうちの1人は、他の律法学者、議員や兵士と同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵る。しかしもう1人はイエスが救い主であることをすぐに信じたのか「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」といい、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う。イエスはそれに対し、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言う。その罪人がどのような人生をおくってきたのか一切問わず、心をいれかえ神へと方向転換しただけで救いの手を差し伸べられたのである。この「楽園」という言葉はパラディソス、エデンの園、つまり神と人とが結ばれて平和に暮らしている世界、それが楽園である。力をなくした状態の中でも、神が共にいてくださることに気づいたときそこはもう楽園である。受難週にあたり十字架に架けられたイエスが「父よ、彼らをお赦しください」と祈ったことを憶え、我々も「自分自身を傷つけた人」をゆるし、私たちが神のみ前でゆるすのはいったい誰なのかを考えよう。その時、我々は憎しみから解放されるのである。

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「私だけではなく、私たちすべてが」ルカ11:1‐13 中村吉基

弟子たちに請われてイエスが教えた祈りが、「主の祈り」である。ここに一番でてくる語は「わたしたち」である。「私ひとりの祈り」ではなくみんなの祈りだという教えである。それは旧約時代の共同体意識、神と民たる私たちとの考え方である。「必要な糧」という祈りも、栄養失調のために死亡する子どもの数が多かったこの時代に「わたしだけの糧」ではなく「わたしたちの糧」を祈っている。主イエスが食事をする場面はたくさん出てきますが、いつも誰かとパンを分かち合っておられる。今日の箇所では、どのような心で祈るべきかの教えもある。それが「求めなさい、そうすれば与えられる」である。忍耐強く「たたき続ける」ならば必ず門は開かれ、求めるものは与えられる。この箇所は物乞いの振る舞いを描写していると言われる。最下層に置かれていた社会的弱者と飲食をともにし、願いに応え、やがて彼らがいきいきと生きていくことができる共同体を生み出していく行動に結びついての祈りである。このことはいかに神が私たちを愛してくださっているかを思い起こさせる。この祈りを通して力を与えられている。それを人びとに運んでいくのが私たちに託された務めである。

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「すべての人を照らすまことの光」ルカ2:1-16 中村吉基

今年もクリスマスを迎えました。みなさんはなぜクリスマスを祝うかご存知でしょうか。イエスキリストの誕生日だからです。しかしなぜ彼の誕生を世界中にお祝いするのでしょうか?それはキリストがとても大切なことを教えてくれたからです。この世界で生きているすべての人は神の子だということです。自分もまわりの人も、孤独な人、病人、ホームレス、捕虜・・・もみな神の子であるという福音を知らせるためにお生まれになった。つい自分のことに集中してしまうが、1969年のベトナムで、今のウクライナで平和も求めて祈り続けている人がいる(いた)と忘れないことが大切である。この1年の混迷は来年も続くであろうが、私たちは神と結ばれて生きる特権を得て、神の子として生きることをキリストは教えてくださった。

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「わたしを思い出してください」ルカ23:33-43 中村吉基

待降節前の今日は伝統的に「王であるキリスト」にちなんだ聖書箇所が読まれる。おとぎ話や海外の教会にある像などで「王」の印象はあるかもしれないが、今日のルカの福音に描かれた主イエスの言動から本当の王を聴いていきたい。十字架の主イエスを最初にあざ笑うのは議員たち、兵士たちも同様であり、ついには十字架につけられていた二人の犯罪人のひとりもののしりはじめる。頭にはユダヤの王と書き、彼らの言い分は「本当の救い主なら自分を救ってみろ」と言い、酸いぶどう酒を飲ませて侮辱する。彼らはイエスが本当の救い主であるはずがないと思っている。彼らは、私達もよくやってしまうが、神を試している。神はやろうと思えば、力あるヒーローのようにこの状況を変えることができた。しかしそのような「力で屈服させる」のは神のやり方でもイエスの生き方でもない。神は決して私たちを操ろうとはされず、人間に対して心に愛をもって迫る。イエスの生涯はそのためのものであったともいえる。主イエスは迫り来る死を前に悲しむ女性たちを慰め、十字架につける兵士達のゆるしを願い、自分の罪を悔いているもう一人の犯罪人には救われることを宣言された。そのような主イエスの姿に私たちは愛を見ることができる。「自分のために、自分のことだけに」固執するのではなく、主イエスと一致して歩んでいく人生になることを神は望んでおられる。ルカの福音書だけに記されているこの罪人の言葉「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」に対し、イエスは神の国の王として約束した。この罪人の祈りを私達の祈りとしたい。そして自ら十字架への道を歩んだ主イエスこそが私たちをあらゆる悪の支配から解放し神の国へと招いてくださることを信じていきたい。

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「虹と弓」寒河江健

聖書日課では本日の主日礼拝の主題は「保存の契約(ノア)」。ノアが箱舟の後祭壇を築き礼拝すると、神は彼の息子たちを祝福し保存の契約をたてて証拠とし、「雲の中にわたしの虹を置く」とされた。しかし虹というのは日本語訳であり、英語では単にザ ボウ(弓)と記されている。弓とは一般に戦闘に使われる。神さまの目に悪とされることばかり行ってきたために人間を動物もろとも滅ぼした、つまり神の弓がひかれたのである。素晴らしいのは、生き残ったのはノア一族とて普通の人間であり、神さまの前に正しい者ではない。しかしそれを赦し弓をひかないために神は雲の中に弓を置いた。イスラエルの民が住むパレスティナには河川氾濫を起こすような川はない。この話の成立はバビロン捕囚後と考えられている。約50年という長い年月を経て、神殿まで壊されて荒れ果てた故郷エルサレムに帰還した彼らの希望となる神の言葉が必要だったのであろう。普通の人間であるノア一族が繁栄したのは神さまの祝福あってこそ。長い捕囚の後エルサレムに帰還し、二度と高慢にならず謙遜に生きていこうというという思いで物語を紡いだのであろう。今日の新約の箇所「体のともし火は目である 」というイエスの言葉である。私たちの目は雲の中においた弓を見て私たちと交わした永遠の約束を見る。慈しみ深い神を見つめ、謙遜の思いを忘れないように主イエスの謙遜を衣として身にまとってこそイエス・キリストを全身に輝かせて辺りを明るく照らすことができるのであろう。

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「神の心に響く人」ルカ18:9–14 中村吉基

今日の箇所は2人の祈りの譬えである。律法をよく学んで掟を確実に実行するファリサイ派と民衆から「罪人」と同様にさげすまれていた徴税人です。しかし模範的なファリサイ派の祈りはその高慢さと惨めさを包み隠さずに神にぶつけるような(カトリックの射祷を想起するような)徴税人の祈りは対照的です。 私達にはいつでも驕り高ぶる者になってしまう危険性がある。年に一度こうして宗教改革を記念して礼拝を捧げ、信仰を原点に戻そうという運動を思い起こしたい。1414年コンスタンツ公会議で火あぶりの刑に処されたヤン・フスは一般市民にも分かるような簡単なチェコ語の説教書を著わし、各人の心の正義を模索しより神に近い生活を送るべきだと言うのが彼の信条であった。処刑後崇敬の対象とならないようにライン川に灰は流されたが、現在のチェコの旗には彼の言葉「真実は勝つ」が記されている。今日の箇所の終わりには「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」とある他者へのやさしさをより深く行うことのできるように神に力をいただき、そして神の心に響く者へと変えられていこう。

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「心が折れる?」ルカ18:1−8 中村吉基

いつからか使われ始めた「心が折れる」という言葉、「もうだめだ」という時に使わるようだが、人間の本当の底力は危機の時に発揮されるとも言われる。今日の箇所は唐突に「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と始まる。その前はイエスの最期と再臨についての話であるからである。そして「気を落とさずに祈りなさい」とおっしゃり、裁判官とひっきりなしにやってくるやもめの譬えにになる。彼女は自分の訴えを裁判官に取り上げてもらおうと、諦めないで裁判官へ願い出ていた。そして人を「神を畏れず人とも思わない裁判官」はとうとうやもめの訴えを受け入れる。この譬えを通してイエスは弟子や私達に神に訴え、叫びを上げ続けるようにと促しておられる。神はいつでも祈りを聴いて下っていて実現するかは神だけが知っている。だから気を落とさず常に祈ることが求められている。往々にして「神は何もしてくださらない」と思える時があるが、気を落とさずに絶えず祈らなければならない、つまり「祈り続けながらも私たちは信頼して主の応えを待たなければならない。今日の最期にイエスは終わりの日に救い主が来られる時にいったいどれだけの人が信仰を持って祈り続けているだろうかを問う。心が折れてはならない、気を落とさず、決してあきらめない信仰が必要である。