使徒言行録一覧

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「騒ぐな」使徒20:7-12 竹澤潤平

トロキアでたくさんの人が集う礼拝中に窓に腰かけていたエウティコは落ちて死んでしまう。しかしパウロは「騒ぐな」といい礼拝を続ける。実際エウティコは生き返る。イエスも似たようなことをして恐れることはない。ただ信じなさいと言っているが、つまり「騒ぐ必要はない、恐れることではない、泣き騒ぐ必要はない、安心していなさい」という意味である。マケドニア州で反抗され、口汚くののしられても、パウロは主から「語り続けよ」と言葉を受けた。十字架にかかり、殺され、死から復活された御方が語る希望である。主の約束の御言葉によって、安心してこの世を歩み続ける力を与えらる。

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「最期の言葉」使徒7:54-60 中村吉基

ペンテコステの日に聖霊を受けた主イエスの弟子たちは熱心に福音を人びとに伝えていき、主イエスを信じる人びとが爆発的に増えていった。しかし、教会の中で、背景が違うもの同士のいさかいや分配をめぐり人間的な争いごとが起き始める。そこで使徒たちは「“霊〔聖霊〕”と知恵に満ちた評判の良い人」を選ぶように言う。その中の一人がステファノである。彼は非常に評判のいい人物だったようだが、逮捕されて最高法院での裁判にかけられてしまう。キリスト者たちに敵対している人がステファノとの議論し歯がたたず恨みに思い、偽りの証人に証言をさせるからである。今日の箇所の前半はステファノの弁明である。内容は主イエスを思わせるものであるが、聞いていた人々は激しく怒り、石打ちで処刑するという判決を下す。そして人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた、一方ステファノは「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んで眠りについた。主イエスだけを、主イエスの愛のみを見上げたステファノの強く、雄々しい最期である。この石打ちの現場に「サウロという若者」の名前が登場する。

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「心と思いを一つにして」使徒4:32-37 中村吉基

今日の箇所は教会初期の記録であるが、まだ教会ではなく「信じた人々の群れ」と書かれている。彼らはイエスキリストを信じ、無所有を是としていた。彼らには「大いなる力」(ダイナマイトの語源になったデュナミス)、つまり神の恵みがあった。それをもってキリストの復活を宣べ伝えていたのである。また使徒たちは人々から非常に好意を持たれていたとあるが、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」と結んで読んだ方がいいだろう。彼らは土地や家うぃ売って代金を持ち寄り共同体各々に分配された」という。カルト教団に似た例があるが、所有するとそういう危険を犯してしまう弱さもあると覚えておかねばならない。しかし当時の教会では申命記にある「貧しい者はいなくなる」という神の約束が実現されていた。「ささげない」と言われた時、不要な物や余裕のあるものから出していないだろうか?神は独り子主イエスを出された。最初のキリスト者たちは神の模範に倣って、神の愛を実現していた。自分の前にいる様々な困難にある人に自然に愛の行いをすることができた。私たちの教会もそれに倣っていきたい。

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「キリストの名によって」使徒3:1-10 中村吉基

エルサレムの神殿の「美しい門」で物乞いをしていた生まれながらに「足の不自由な男」は、神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていた。決して門の中には入れなかった。そこを通ったペトロとヨハネは「金や銀はないが」と前置きし、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言うと、その男は歩き回り、神を賛美し、一緒に境内に入り神を賛美した。施されたものが金と銀であればその男の当面は潤ったかもしれないがまた尽きれば元通りである。しかし使徒たちは、「イエス・キリストの名によって」永遠の救いを約束した。今日の箇所が教えていることは、金と銀ができることには限界がある、それには頼らずイエス・キリストを信じ、模範として生きることが大切である。私たちがすべきことは「キリストの名」を人びとに与えることが、教会がなすべきことである。

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「心を抉られる経験」使徒2:37-42 中村吉基

五旬祭の日、主イエスが甦った喜びを伝え、十字架のイエスを神は主としメシアというペテロの説教をきいた人々「深く心を抉られ」(荒井訳)と聖書にはある。聞いた人々のどうしたらいいかを質問に対しペテロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と答える。これに応えて洗礼を受けたものはこの日だけで3千人あったと記されている。福音のメッセージを聴いて、「深く心が抉られる」経験をしたことがあるだろうか?どのようにして福音の言葉が届けられたのかを思い起こし、聖霊の賜物をもって福音を伝えよう。聖霊は必ず私たちを支え、それを助けてくれるのだ。

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「心を合わせて祈る」使徒1:12-14 中村吉基

復活された主イエスは、聖霊による洗礼を授けられ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となると語られたと語った後、天に昇られた。場所は通称「オリーブ山」、ベタニアやゲツセマネの園がある場所である。今日の箇所では、聖霊降臨の現場となる部屋、つまり泊まっていた家の上の部屋(the upper room)で使徒たち、婦人たち(おそらくルカ8:2,3に記されているような女性たち)や母マリア、兄弟たちが心を合わせて祈り聖霊降臨を導いた、危機的状況を乗り越えたのである。「嵐の中の教会 ヒトラーと戦った教会の物語」という本にはドイツの小さい村の教会で、ヒトラーの影響は強まる中で、「聖餐式によって生まれる共同体は、国民共同体よりもはるかに深い」といった説教をした牧師と、それを「アーメン」と信徒が受け入れ、一つになった瞬間が書かれている。我々はヒトラーの時代のようには緊張した時代ではないかもしれないが、聖餐はいつでも厳粛な出来事、パンとぶどう酒の形をした主イエスが来てくださり、私たちに入って一体となってくださることである。かつて日本が戦争に突き進んでいた時のようにイエスを格下げすることのないように、私たちは心を一つにして祈るところにのみ、聖霊が与えられることを信じたい

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「教会は〝ことば〟から始まった」使徒2:1-11 中村吉基

ペンテコステは、失望して閉じこもっていた人たちが、神の力を受けて外に出て行き、同じように悲しみや苦しみの人生を送ってきた人々に「神の偉大な業」を告げ知らせる者へと変えられていった出来事と読み取ることができる。教会の歴史の始まりである。教会は建物ではなく組織でもない。当初の教会はそれぞれの賜物を与えられた人をイエスが召し集め聖霊が接着剤の役目を果たしているのであろう。多様な言葉で話し始めたペンテコステは一致した教会の始まりには思えないかもしれないが、全て神のお創りになったものである。神はこの世界をおつくりになったのもことばによるものであった。今日の旧約はバベルの塔であるが、ここで通じなくなったものがペンテコステで再びつながったのである。この出来事が我々の教会でも実現しているのことである。我々がひとりひとり違っていることを喜び、それぞれが聖霊をお迎えして、この信仰の共同体を、聖霊の力によって前進させていただこう。

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「感動に突き動かされた教会」 使徒言行録2:1-12 中村吉基

ペンテコステの日に神が聖霊を通して何をなさったのか。 主イエスが復活された日の夕方、主の弟子たちに新しいいのちが授けられ50日もの間弟子たちの中にとどまった。しかし、この日はすぐさま弟子たちの内側から外側へと溢れ始めた。聖霊の力を「感」じて「動」きはじめたのである。普段使っていた言葉だけではなく、新しい言葉をもって神を賛美し始め、その様子は酔っているとあざける者もいたほどである。この出来事はいったい何を表しているのか。主イエスの死に失意の中にあった者たちが聖霊の力を受けて外に出て行き、同じように失意の人生を送ってきた人々に「神の偉大な業」を告げ知らせる者へと変えられた。それが教会の歴史が始まりなのである。