「教会は〝ことば〟から始まった」使徒2:1-11 中村吉基

創世記11:1-9;使徒言行録2:1-11

2023年のペンテコステおめでとうございます。

ペンテコステは考えてみれば、不思議な出来事でした。「激しい風が吹くような「音」がして、「炎のような舌」家の中にいたイエスの弟子たちを始めとした人々の上にとどまり、そしてその人たちはさまざまな言語で話し始めたのです。とうてい私たちの常識からは想像しかねるような出来事でした。

その音が「家中に響いた」(2節)とあります。家というのは日本語でもそうですが、ギリシア語(オイコス)でも建物のことだけを表すことばではありません。家族や共同体に生きる、同じ信仰に生きる私たちの教会のような集まりも「家」と言うのです。イエスが死に、復活されたけれども、天に昇られて、寂しく、落ち込んでいた人々が集っているところに、その家中に響きわたる風のような音が聞こえました。

「響いた」とあります。何が響いたのでしょう。それは一人ひとりの内側に小さな炭火のようにある神様の愛に、外側からイエスに代わってやってきた聖霊の風に吹かれて、その炭火がどんどんどんどん大きくなっていくような形で響いたのでしょう。確かに主イエスが約束されたように、弁護者であり、主イエスに代わる神の姿である聖霊が今ここにやってきたのです。人々はもう落ち込んではいられませんでした。泣いてもいられませんでした。後ろを振り返ってくよくよしてもいられませんでした。

炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々のことばで話しだした」(3,4節)

聖霊はどんどん一人ひとりをもれなく用いてくださって、人々は「ほかの国々のことば」で話し始めました。そしてもう、家のなかで留まっていません、外に出て、一人ひとりが大胆に主イエスのこと、そして11節にあるように「神の偉大な業」について語り始めたというのです。

さて、5節以下ではその不思議な出来事に遭遇した一般の人々のことが記されています。五旬祭の時には、エルサレムには多くの巡礼者たちが集まってきていました。しかし、ここに出てくる「あらゆる国から帰ってきたユダヤ人」たちというのは、いわゆるディアスポラと言って、さまざまな事情から諸外国で暮らすことにになった人たちでした。しかし、彼らは「信心深い」とあるように一生の終わりにパレスティナに帰り、それもできるだけ神殿の近くに帰ろうとしてきた人たちでした。いわばさまざまな波にもまれて一生を過ごしてきた人たちに、その人たちの「生まれた故郷のことば」で神の偉大な業が語られたのです。もう、目をまん丸にするばかりの驚きでした。そして9節以下にはいろいろな地名が出てきます。当時知られていた地名でしょう。使徒言行録の1章8節に天に昇られる前のイエスが「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と約束した言葉が記されてあります。その主の言葉がこの朝、実現したのです。

ペンテコステの出来事を聖書から読み取っていく中で、私たちが知ることは、失望して、家の中に閉じこもっていた人たちが、神の力を受けて外に出て行き、同じように悲しみや苦しみの人生を送ってきた人々に「神の偉大な業」を告げ知らせる者へと変えられていったことが分かります。そしてこの時、教会の歴史が始まったのです。

そして、最初の教会は、「神の偉大な業」を語っていた教会です。私たちの持っている教会のイメージとはかけ離れているかもしれません。本来教会というところは建物があり、人が大勢集っていて、オルガンがあって、きれいなステンドグラスが入っていて、牧師がいて……というようなところではありませんでした。今日の聖書の箇所から導かれて推測すると、教会は「組織」ではない、ということです。来週からしばらく礼拝において「使徒言行録」に聴いていきます。「使徒言行録」にこのあとにも出てくるキリスト者たちの共同体は、組織よりも「つながり」を大事にしました。

最初の教会は「何人いるのか」ということよりもそこに「誰かいるのか」ということを大切にしました。この教会にAさんがいて良かった。Bさんがいてよかった。Cさんがいてよかった。というふうに教会はまるでパズルの一片一片を組み合わせたようなところです。みんな違う神の作品です。時には違っていることで衝突することもあるかもしれませんが、そこを主イエスが召し集めてくださるのです。きっと聖霊が接着剤の役目を果たしてくれるでしょう。みんな違った個性があり、一人ひとり違う賜物を与えられているのです。それを出し合って教会を造り上げていくのです。

ペンテコステの日、人々は多様なことばで話しました。まるで一致している教会の出発には見えないでしょう。しかし、それはすべて神から出たものです。神がこの世界をお造りになったときに、「ことば」によってあらゆるものが創造されました。教会も「ことば」によって出発しました。

今日の創世記の箇所は、「バベルの塔」の出来事が書かれていますが、ここに出てくる人々は「ことば」によって失敗してしまう。彼らは罪を犯してしまいました。けれどもこの事件以来、世界中の言葉が通じなくなっていた人びとの間にふたたび意志を疎通させることができるようになったのがペンテコステの出来事でした。この時エルサレムで祝われていた五旬祭はユダヤ教の大きなお祭りでした。地中海沿岸のいろいろな国や地方からたくさんの人がエルサレムに集まってきていたのです。9節以下のところにもいろいろな地名が書いてありますね。エジプトやメソポタミアや小アジアやローマからも来ていた人もありました。そこにいたいろいろな人たちが皆、弟子たちの話す言葉が分かり、この人びとも大いに感激してその日洗礼を受けた人が3000人もいたということです。

本来は言葉が通じ合うことなく、お互いに理解することの困難な、さまざまな国や地方の人々が、聖霊の到来した時に、弟子たちが話している事柄が全て分かり、心が通い合わせられたというのです。聖霊が皆の言葉や、それだけではなく心の壁を壊してくれて心が通い合うようになる。とても素敵なことが起こりました。聖霊というお方は私たちの隔たりを取り除けてくださって一つにしてくださるのです。そしてこの素敵な出来事は私たちの教会でも実現しているのです。

私たちは聖霊にあって一つになることができます。お互いの違いが与えられていることを今日、もっと喜び合いましょう。今日の礼拝でお隣や前後に座っている方々と共に神からの祝福を受け、またお互いに祝福を祈りましょう。そして私たちは今日、原点に立ち戻って本来の教会の姿を取り戻さなければならないのです。聖霊は生き生きとした教会を誕生させてくださったのです! 

一人ひとりが聖霊をお迎えして、この信仰の共同体を、聖霊の力によって前進させていただきましょう。