「最期の言葉」使徒7:54-60 中村吉基

イザヤ書66:1-2;使徒言行録7:54-60

この礼拝において私たちは使徒言行録に引き続き聴いています。

五旬祭・ペンテコステの日に聖霊を受けた主イエスの弟子たちは熱心に福音を人びとに伝えていきました。これまでにももう何度となく出てきましたが、ある時には「3000人」(2:41)とか「5000人」(4:4)とその福音を聴いて、主イエスを信じる人びとが爆発的に増えていきました。今の日本の教会の状況から比べると、――これは世界的な傾向かもしれませんが――主の日に礼拝に行く人が減っているという現状からすれば、まことに羨ましいというか、活気のある状態――それが原始キリスト教会の出発点でした。

中国出身の牧師さんに聞いたことがあります。中国では今もって完全な「信教の自由」がないのですが、5つの宗教(仏、道、ムス、カト、プロ)だけは政府が公認しています。しかし、完全に自由ではありません。たとえば主イエスの奇跡物語などを語ることが禁じられています。しかしそんな中で魂の救いを求めて、教会に人が殺到しています。牧師ひとりで5千人、もしくは1万人を牧会しなければならないほど教会に人が溢れているといいます(これでは牧師は信徒の名前や顔を憶えられないでしょう!)。使徒言行録に伝えられている最初の教会の状況もこれに似ていました。

ですからこの時の教会に必要なのは信徒の指導をしてくれる人、牧師とか長老とか執事という制度はまだこの頃確立していなかったので、中国の教会同様にとにかく早急に働き手が必要でした。使徒言行録6章1〜7節に7人の最初の執事たちが選ばれたことが記されています。皆さんも想像がつくと思いますが、いろいろな人たちが教会に与えられていきますと、それまでいろいろな境遇で生きてきた人、もちろんその人たちの性格の問題もあったでしょう。教会の中で人間的な争いごとが起き始めます。きまって最初は小さなことから始まるのですが、6章1節にはこう記されています。

「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」。

「弟子」というのは教会員(信徒)です。まだ教会の組織が整っていない時代ですが、信徒の数が増えてきて、「ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た」というのはこの両者はユダヤ人であることは変わりないのですが、「ギリシア語を話すユダヤ人」というのは「ディアスポラ」と言いまして、もともと、パレスティナに住んでいた人びとでしたが、経済的に貧しかったり、戦争に破れたりしてパレスティナを出て方々に離散したり、異民族の地に暮らしていた人たちのことです。「難民」とはまた少し違っていまして、難民はもともと定住していた地に帰っていく可能性がありますが、ディアスポラは離散した場所で定住することが多い人びとでした。ですからローマとかローマ帝国の属州で暮らして、異民族などとも交流してギリシア語を話していたのです。そして他方「ヘブライ語を話すユダヤ人」というのはパレスティナに住み続けていたユダヤ人のことを指します。この両者が「もめていた」というのです。

何についてもめていたのかというと、当時の社会でひじょうに小さくされていたやもめ・未亡人となった女性に対しての「日々の分配」が少ない、差別を受けているということで起こったいさかいでした。では「日々の分配」とは何かと言えば、先日もお話ししましたが、ここに出てくる最初のキリスト者たちは共同生活を営んでいたのです。2章44,45節には「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」。この「分配」のことなのです。

おそらくこのほかにもさまざまなことが教会内で生じていただろうと思われます。皆一人ひとり、生きてきた歴史も、場所も、産んでくれた親……皆「背負ってきたもの」が違うからです。最初の教会は早くもこういう問題にぶつかっていました。

そこで教会のリーダーであった使徒たちは考えました。6章3節で使徒たちはこう言いました。「兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」。最初の執事たちは「“霊〔聖霊〕”と知恵に満ちた評判の良い人」から選ばれました。その1人が今日の箇所に登場するステファノでした。

ステファノという人は、6章8節に「恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」とあるのですが、ひじょうに教会の人びとから尊敬されていた「評判の良い」人物だったようです。ところが先週の4章にありましたペトロとヨハネ同様、このステファノも逮捕されて最高法院での裁判にかけられてしまうのです。なぜステファノが逮捕されたのかといいますと、この最初の教会、キリスト者たちに敵対している人が、ステファノと議論しますが「彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった」(6:10)という出来事がありました。そのことに恨みを持った人物が、人びとを煽動してステファノを襲撃します。そして偽りの証人を立てて、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と証言させます。しかしこの時のステファノは「さながら天使の顔のように見えた」(6:15)と記されてあります。

今日の箇所の前の部分、7章1-53節は長いステファノの弁明になっています。この弁明を掻い摘んでお話ししますと、神殿はもともと神に祈りをささげる場所でした。しかし、そこに入れる人は特権階級と言ってもいいごく限られた人でした。6月18日の礼拝で3章のお話しをした際に、そこに出てきた足の不自由な男は神殿の門の側で施しを乞うていて神殿の中には入れませんでした。神殿の中では権力者たちが思うままに支配していて、神殿の外では低みに置かれ、力のない、小さくされた人びとが貧しく過酷な生活を強いられている現実がありました。当時キリスト者になった人たちは、こういう層の人びとでした。思えば主イエスも同じ側の人でした。主イエスは神殿とそこを牛耳っていた人びとを批判し、貧しい人たちを擁護したことで指導者たちの反感を買い、十字架刑に処せられたのです。

さて、ステファノの弁明を聞いていた人びとは54節を見てみましょう。

「これを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした」。ステファノに対する怒りが満ち満ちていることがよくわかります。遂にステファノを石打ちで処刑するという判決を下してしまいます。しかしその時のステファノは55節以下のところです。「聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられる主イエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。3章のところでお話ししましたが、ペトロとヨハネが足の不自由な男を「じっと見て」(3:4)ということがありました。これは「神の力が宿った」瞬間だったと申しましたが、この時のステファノも同じでした。

しかし無惨なことに57節以下「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた」とあります。「大声で叫びながら耳を手でふさぎ」というのは少し不思議な光景です。人びとは神を冒涜したステファノの言葉から身を守っていたのだと考えられていますが、それほどまでに力のある言葉でもあったことが判ります。

59節で石打ちに遭うステファノは「主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言います。そしてステファノの最期の言葉が次の60節に記されてあります。

ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

私はステファノの最期の場面に、あの主イエスの十字架の場面での人びとへのまなざしを思い起こさせるものがあるのではないかと重ね合わせて見ています。「ぶれない」生き方だったという言葉で片付けて良いのかと思うほど、主イエスだけを、主イエスの愛のみを見上げたステファノの強く、雄々しい最期でした。

さて、58節にはこの石打ちの現場に「サウロという若者」の名前が登場します。使徒言行録の著者はこのサウロ(のちのパウロのことです)がこのあとの教会に影響を及ぼしていく人物ということを示唆しているのです。