「騒ぐな」使徒20:7-12 竹澤潤平

エゼキエル書37:1-10;使徒言行録20:7-12

今日の聖書箇所はパウロの旅の途中、トロアスという場所での話です。
「週の初めの日……パンを裂くために集まっている」と最初にあります。
ここは教会の話、礼拝を示しています。
パウロたちは既に次の日出発する予定が決まっているにもかかわらず、話は夜中まで続いていたようです。

8節「わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた」。
この使徒言行録はパウロの旅の同行者で、医者であったルカが書いたものであろうと言われます。
ですからわたしたちなのです。
8節のここの新共同訳の表現は想像を掻き立てられる気がします。
多くの人が集まっている、たくさんある光。
その明かりに照らされるたくさんの顔。
パウロの話を熱心に聞こうとする真剣なまなざし。

その中でエウティコという青年は窓に腰を掛けていました。
先ほどは散々に、ネタにして色々と話しましたが、
変な人だ、とかいうわけではありません

だらしなく、行儀が悪いという訳ではありません。
たくさんの人が部屋いっぱいに集まっており、窓に腰かけるしかなかったのでしょう。

昔、といってもつい最近、数十年前の日本の教会も近いものだったと聞きます。
会堂の椅子一杯に座り、座れない人がいるほど会衆が溢れかえっていた時がありました。
なかなか座れないなんて、私はクリスマス以外では数えるほどしかありません
それが毎週だった時代もあるのです。
その時の説教も、パウロのような長々とした説教がありました。
1時間2時間が当たり前。
それが普通であり、それを聞きに会衆が集まっていた時があるのです。
今はそうではなく、空席のある椅子が、寂しい空間を作っている。
そんな教会は少なくありません。
今は説教が短くなったから人が来なくなったのか。
逆に長い説教をしていた結果、人が来ないようになったのか。
長いからではないでしょう。
勿論、長い説教が良いと言いたいわけではありません。
しかし、1時間2時間、それ以上の説教を熱心に聞きにくる。
それほどまでに皆が御言葉を求めていた時があるのです。

さて、3階の部屋の窓に、エウティコは腰かけていましたが、眠りこけてしまいます。
私たちも経験があると思います。
必死に御言葉を聞こう、説教を聞こうとしてもどうしようもなく眠く、ガクッとなったり、頭を前後に揺らしてしまったり。
だからなのか確認していませんが、神学生仲間でもこのエウティコの箇所を好きな人が多くいました。
皆身に覚えがあるのでしょう

どうしてもそういった状況になってしまうことはあります。
この時のエウティコも何かしらでひどく疲れていたのでしょう。
それでも、礼拝に来ていました。

私たちの場合は背もたれがありますから、良いですが、窓に座っているエウティコにはなかったのでしょう。
しかも3階ですから、眠たくなったら危険なんてことは身をもって感じるはずです。
ウトウトした時点で私なら怖くなり、退席してしまうと思います。
それでも、エウティコは命をかけてでも聞くべき話しだと強く考えたのではないでしょうか。
彼はそのような熱心な会衆の中の一人です。

しかし、狭く、暑く、眠い中(想像ですが)そうまでして御言葉を求めていた青年エウティコが礼拝中に落ちて死んだ。
その事実はどれほど集まった人々を、教会を不安にさせる出来事だったでしょうか。

今だって礼拝の最中、倒れる人はいますし、死ぬこともあり得るでしょう。
以前神学生時代出席していた教会の礼拝中、倒れた方がいました。
本当にすごい音がしますね。
その前に出席していた教会でも見ました。
それも、熱心に教会に通う方ばかりでした。
体が辛くても、老いても、御言葉を聞こうと集まる人たちでした。
そうなるかもしれません。
自分の調子が悪くても、何かいつもと違うと感じても、救いを求める場所は病院ではなく、教会であり、礼拝なのです。
神の御言葉を求めずにはいられないのです。
しかし、そのような人が礼拝中に死ぬ。
それは教会にとってどれほどショックな出来事でしょうか。

エウティコは3階から落ち、死にました。
「パウロは降りて行き、・・・騒ぐな。まだ生きている」。
イエス様が似たようなことされていますが、会堂長ヤイロの娘の箇所です。
他にもナインのやもめなど。
ストーリーというより、メッセージが重なっているように思います。
パウロの『騒ぐな。まだ生きている』と、
イエス様の『恐れることはない。ただ信じなさい。』
何時でも、どこでも、何が起こっても
「騒ぐ必要はない、恐れることではない、泣き騒ぐ必要はない、安心していなさい」ということです。

また、パウロは主から言葉を受けています。
マケドニア州というところで、ユダヤ人たちに神の御言葉を伝えていると、反抗され、口汚くののしられることもありました。
そのパウロに主は語り掛けました。
『恐れるな。語りつづけよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。』

11節「そして・・・」
礼拝は続けられたのです。
勿論、礼拝中に人が倒れれば、医療の資格を持つ人が観て、救急車を手配したり、その人を別の場所に移したりします。
礼拝は中断されることはあります。
しかし、礼拝は守りつづけられます。
人が倒れようと、教会が衰退して椅子の空席が目立とうと。
救いはそこにしかないからです。

神学生時代に、出席教会の牧師と一緒にガンの方のお見舞いに行ったことがあります。
その方は余命一年と宣告されて、怖いとおっしゃっていました。
残りの半年程度は礼拝に出席できましたが、そのうちに、牧師に「先生、もう大丈夫です」とおっしゃったそうです。
その後、礼拝にも来ることができなくなり、自宅療養のような形になりました。
その当時神学生だった私は、牧師と亡くなる数日前に伺いました。
多くのチューブが繋がり、やせ細り、声も勿論出せない状態。
本当に苦しそうで、まるで別人のように変わっていて、とても悲しい気持ちになりました。
讃美歌をしっかりと上に掲げて歌う方で、毎週かかさず礼拝に出席する方でした。
聖書を読み、祈り終わって部屋から出る時、牧師が手を握り、何か言葉をかけました。
私も手を握りましたが、その方は今どのような気持ちなのか、何と声をかければいいのかわからないままでした。
そのような人にどのような言葉を投げかけることができるでしょう。
どのような言葉がその人を慰めるでしょうか。
どうしたらその人が救われるでしょうか。
混乱の中に、情けない無力感に落とされている私の手を、彼は、ほっそーくなった手で、ギュッと力強く握ってきました。
その時はどういう意味かわからず、悲しい気持ちだけのまま、逃げるようにその場を後にしました。
こういった時に何も投げかける言葉を持っていない自分の無力さを痛感しただけでした。
しかし、今ははっきりと確信しています。
「恐れることではない、泣く必要はない、安心していなさい」
と私に伝えようとしていたのだと確信しています。
そして、一緒に伺った牧師が言った言葉もきっとこうなのではと思います。
「御国でまた会いましょう」。
きっとそのような、キリスト者、クリスチャンとしてはありきたりな言葉だったと思うのです。
それでいいのだと思います。
私たちキリスト者には信仰があるのですから、主が約束し、保証してくださっている神の国、その御国で再び会いましょう。それで十分なのであります。

12節「人々は・・・」
『生き返った』とはっきりと書いてあります。
仮死状態だったとかいう話ではありません。
ですから、当然、人々は驚き、感謝し、大いに慰められました。
しかし、これは「エウティコという青年」の身の上だけに起こった奇跡ではありません。
礼拝に集うものすべてに語られているメッセージです。

「騒ぐ必要はない、恐れることではない、泣き騒ぐ必要はない、安心していなさい」。

使徒パウロが語り続けた言葉です。
そして、主ご自身がおっしゃったことです。
十字架にかかり、殺され、死から復活された御方がおっしゃるのです。
礼拝の中でも、教会の中でも、信仰深く神様から愛され愛していると思われる人にも、納得のいかないような出来事が起こるかもしれません。
しかし、復活の希望は消えません。
「騒ぐな、騒ぐ必要はないんだ、恐れることではない、泣き騒ぐ必要はない、安心していなさい」
その神の御言葉が、聖霊を通して礼拝の中で語られています。

いますぐ死人が復活するわけではない。
それはあくまで世の終わりの時、神の国が始まる時です。
けれど、それと同時に、確かにこの世の歩みにおいても、死人だったような者が生かされます。
希望を奪われ、お先真っ暗なその人に、光が差し込み、主のみ言葉の下に、生かされるのです。
主の約束の御言葉によって、安心してこの世を歩み続ける力を与えられます。
共に祈りましょう。