「真実は勝つ」使徒26:24-32 中村吉基

イザヤ書6:1-8;使徒言行録26:24-32

今週10月31日は宗教改革者マルティン・ルターがドイツ・ヴィッテンベルグ城教会の扉に「95箇条の提題」と題される当時のカトリック教会に対する意見書、公開質問状を貼りつけたことによってヨーロッパの教会改革運動が起こったことを記念する日です。

今日、私たちの礼拝では、礼拝音楽部の皆さん、また聖歌隊の指導をしてくださっておりますT先生によって、宗教改革のもう一人の旗手、ジャン・カルヴァンの教会で用いられ、そして私たちの『讃美歌21』に受け継がれている「ジュネーブ詩編歌」を中心に選曲していただいた賛美歌で礼拝を構成しています。いつもより少し多めに賛美を捧げながら、私たちの教会の原点を憶え、祝いたいと思うのです。

私たちは今月の最初の主の日に「世界聖餐日」を祝いました。今から61年前のことです。1962年10月11日にカトリック教会は「第2ヴァティカン公会議」を開いて、向こう100年間の教会の方針を定めました。それまで、カトリック教会では他宗教はおろか、同じキリストを信じる私たちプロテスタントにも救いは無いと宣言していましたが、この公会議の決定を受けて、諸宗教間に交流が生まれ、分かたれたキリストの兄弟として、キリスト教諸教派も交わりに加えられるいわゆるエキュメニカルな歩みが始まったのです。今、私たちが生きているこの時代は、どの歴史の時代にも比べてカトリックとプロテスタントを中心とする諸教会が大きく歩み寄っている時代です。そのような時代の中で宗教改革記念日を憶える教会が減っているとも聞きます。

しかし、私たちはいつも原点に帰る必要があります。それは自分たちが右に偏って行っていないか、あるいは左に旋回していないか、まっすぐに歩み続けているのか、絶えず吟味する必要があるでしょう。今日私たちは宗教改革――それは改革というより教会やそこで伝えられている信仰を原点に戻そうという運動でした。そのことに思いを馳せながら私たちの教会共同体を共に形づくっていく一人ひとりになりたいと思うのです。

そこで、使徒パウロのあるエピソードを示されました。それが今日の箇所です。その前にこの26章に至るまでのことをお話ししておきましょう。

紀元58年、パウロ一行は宣教旅行の報告を兼ねてエルサレムにやってきました。エルサレム教会の指導者ヤコブにも会いました。エルサレム教会の長老たちは、パウロが律法に忠実なユダヤ人たちに憎まれていることを彼に伝えて、心配しました。しかし、その心配が的中して、パウロは神殿にいるところを、神殿を汚したという罪でユダヤ人たちに引きずり出され、殺されそうになりました。この混乱のさなかにローマの千人隊長がやってきてパウロを捕らえました。パウロは許可を得て民衆の前で弁明しましたが、民衆はまた騒然となり、千人隊長によってパウロは連れ去られました。彼はパウロの罪を調べるために最高法院を招集しました。けれどもパウロに罪は見いだせなかったのです。その後、パウロを暗殺するという陰謀が発覚し、エルサレムに留めておくことはできず、カイサリアにいるローマ総督フェリクスのもとへ送られました。

フェリクス総督は大祭司たちの訴えにもかかわらず、裁判を延期し、パウロにある程度の自由も認めました。そして2年もの間、監禁しておきました。そのうち新しい総督フェストゥスが着任すると、ローマ帝国の市民権を持っていたパウロはローマ皇帝に上訴しました。そこで今度はローマに送られることになりました。その前にパウロは新しい総督を表敬訪問しに来たアグリッパ王とその姉妹ベルニケをはじめ、高官たちの前で弁明するチャンスを与えられたのです。それが今日の箇所です。冒頭で「パウロがこう弁明していると」というのはアグリッパ王の前で弁明をしていることを受けての言葉です。
そこにフェストゥスが野次を飛ばすのです。
「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」

それにパウロはこのように応酬します。
「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです」。

パウロは全身全霊を傾けて「真実で理にかなったことを話し」ました。その結果、その弁明を聞いた誰もが彼が無罪であることを認めなければなりませんでした。しかし、パウロは上訴していましたから、ローマに渡りました。紀元60年頃のことです。裁判はすぐには行われず、そこで見張りの兵士をつけられたまま、彼は自分で借りた家に住み、2年間そこで過ごしました。先々週の礼拝で聴きました使徒言行録28章30,31節にはこのように記されています。

「(パウロは)訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」。

この2年の間に2通の手紙をしたためたと推定されています。エフェソの信徒への手紙とコロサイの信徒への手紙です。フィリピの信徒への手紙とフィレモンへの手紙とを合わせてこの4通は「獄中書簡」と呼ばれています。パウロはコロサイの信徒への手紙の中で、キリストの十字架の死によって神と人間は和解したのだ(コロサイ1:20)と言っています。ご存じのようにパウロはかつてキリスト者を迫害する人間でした。しかし、復活の主イエスに出会い、「真実」を知ったのです。そしてそれまでの自分の罪がゆるされたことを知りました。それはただキリストの十字架を心に信じる信仰が有れば神は救ってくださるという「信仰義認説」に他なりませんでした。これはパウロが何か立派な行いをして得たものではなく、ただ一方的な神の恵みによるものでした。そして彼の中でこの福音は大きな喜びに変えられて行ったのです。

パウロ自身が受けた同じ信仰の喜びに、ルターやカルヴァンなどの宗教改革者たちは一様に気付いたのでした! それが私たちのプロテスタント教会がもっとも大切にしている信仰、
「聖書のみ」
「信仰のみ」
「恵みのみ」
に受け継がれて行きました。

パウロの最期についてはよくわかっていません。一説にはあのキリスト教徒を大迫害したことで有名な皇帝ネロに紀元60年代に首をはねられて殺されたとも言われています。しかし、パウロはすでに知っていました。
「真実は勝つ」ということを。