「受け容れる人、拒む人」使徒13:44-52 中村吉基

イザヤ書49:1-6;使徒言行録13:44-52

「ただ神にのみ栄光を」。宗教改革者ジャン・カルヴァンが大切にした言葉です。宗教改革者たちは「5つのソラ」(ソラはラテン語で「〜のみ」を表す言葉)「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ、キリストのみ、神にのみ栄光を」とされる言葉の一つです。バッハがほとんどの作曲した作品の自筆譜の最後にこの言葉を記したことでも知られています。

私の母教会である教会の外壁には“Soli Deo Gloria”(ただ神にのみ栄光を)と刻まれています。街の中心部の繁華街に建てられた教会です。教会の前を通りかかる人ならば誰からも見ることができます。しかしそれに気がつく人は少ないです。このことは私たち人間の世界を映し出しているとも言えます。自分のことばかりに関心が向き、他者のこと、ましてや神のことなど関心を寄せることがないのです。聖書ではこれを「罪」と言います。自分と神の関係が断絶している状態——それが「罪」なのです。

その教会は明治期に地元の旧制高等学校に英語教師として招かれたアメリカ人の宣教師によって伝道が始められました。宣教師はまったく見ず知らずの国に来て、言葉も通じず、文化も習慣も何もかも違うところに来て果敢に伝道のわざに取り組む姿に心を打たれます。日本のその街にはキリスト者などまだ一人もいないのです。宣教師たちを遠いアメリカからこの日本へと動かしたものは何だったのかと思います。何が彼らを突き動かしたのか。促したのか。まだまだ歳の若い宣教師たちでした。そのことも頭に置きながら今日の箇所を読んでみたいと思うのです。

パウロとバルナバ————バルナバは初代教会のメンバーの一人で、使徒言行録4章37節にはこの人は全財産を売り払って、宣教と貧しい人びとのためにささげたと記されてあります。この2人は今のトルコに当たるアンティオキアでユダヤ人伝道をくりひろげていた時のエピソードが記されています。最初の44節に「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」とあります。すごいことです。でも一方で信じられないような出来事でもありました。それほどパウロとバルナバの評判は良かったのです。しかしながら45節から「ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。/そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。『神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている』」。

イエス・キリストは神の救いは約束の民・ユダヤ人だけではない、世界のどこに住んでいても、どんな民族でも、どんなセクシュアリティーでも、貧富の差も、学があろうとなかろうと、健康な人も病の人も、すべての人に救いを届けてくださいました。この時のパウロたちのメッセージもこの通りでした。だからユダヤ人たちが反対したのは、彼らはずっと自分たちだけが「選ばれた民族」だと信じていたから、世界のあらゆる人が救われるなんてとんでもないことだと思ったからです。

46節にパウロとバルナバは「勇敢に語った」とあり、決して怯まなかったのです。最後には「わたしたちは異邦人のほうに行く」と宣言するのです。それは47節「わたし(神)は、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために」とこれは本日の旧約聖書の箇所にも選ばれているイザヤ書の49章6節の引用ですが、ここでは救い主が「異邦人の光」なのだと預言されていますが、パウロたちはここを自分たちに置き換えます。もちろん救い主キリストは諸民族、国々の光には変わりないが、自分たちは使徒としてこの光をかかげて救いを告げ知らせるのだと言います。

48節 「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」。46節では「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」と確かに救いはユダヤ人に告げられるものだったけれども、あなたがたユダヤ人はそれを拒んだじゃないか。でもユダヤ人は何が何でも「自分たちだけ」が救われると信じきっています。それに対してキリスト者は「すべての人」が救われると宣べ伝えたのです。

冒頭にお話ししたカルヴァンは宗教改革の旗手でありますが、1517年のドイツでマルティン・ルターが宗教改革に着手して、ヨーロッパ中にそのうねりが広まって行きましたが、その時、スイスのジュネーブで大学の教師をしていたのがフランス人、ジャン・カルヴァンでした。彼の影響というのはその後のピューリタンにも伝わって行くのですが、彼の神学を受け継いでいる主な教会は長老派、改革派と呼ばれる教派です。カルヴァンの神学の柱の一つに「予定説」というものがあります。これは神の救いに与る者と滅ぶ者は、人間の意志に関わらず予め定められているという彼独自の神学です。この48節「永遠の命を得るように定められている人」と聞くと「何だ、信仰しようとしまいとも、教会に行こうが行くまいが、救われる人は決まっているのか」と思ってしまいますが、そうではありません。異邦人は救いのメッセージを受け容れました。しかし、ユダヤ人は拒んだという厳然たる事実を記しています。

こともあろうかそのユダヤ人たちは、50節「神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した」。いつの時代も人間は本当に姑息な手を使って自分と異なる者を排除しようとします。しかし主イエスはルカによる福音書9章5節で「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出て行く時、彼らへの証しとして、足についた埃を払い落としなさい」パウロたちはその通りにして新しい開拓の地、イコニオンに向かいました。

今日の箇所の最後52節には短い言葉ですが、とても素晴らしい言葉が記されています。「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」。この「弟子」というのはアンティオキアで洗礼を受け、キリスト者になった人びとのことです。主のみ言葉を受け容れた人の結末でもあります。救い主を受け容れた人はこうなったのです。私たちもこの言葉に自分を照らして見る必要があります。皆さんは「喜びと聖霊」に満たされているでしょうか。アンティオキアのキリスト者はこの時教会を設立する勢いであったようです。

「ただ神にのみ栄光を」という言葉を紹介しました。何だ、キリスト者というのは面白くないな、「自分の栄光」のためには何にもしないのかと思われるかもしれません。しかしそうではありません。ただ神にのみ栄光をと生きることは、神によって救われた生活を送るということです。神とともに生きるということです。

皆さん、お一人お一人は誰のために生きているでしょうか。 自分のため? パートナーのため? 子どものため? 親のため? 仕事のため? 自分のためだけに生きることは本当にそれでいいのでしょうか?誰かのためとか、会社のために生きるということも何か自分に利益を与えてくれるからではそうするのではないでしょうか。「ただ神にのみ栄光を」とは、神が皆さんを愛してくださった、その愛の中で生きるのです。

パウロはコリントの信徒への手紙1の10章31節こう言っています。

あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

私たちの周りにもまだこの神の愛を知らない人びとがたくさんいます。私たちは先にこの愛を知った者たちとして、パウロたちのように「勇敢に語り」たいものです。もし語ることができなかったら行動で伝えたいものです。そして私たちの教会に、「救いはここにある」ことを勇敢に伝えていきたいのです。