コリントの信徒への手紙Ⅰ 10:14-22
今日は世界宣教の日、世界聖餐日です。毎年教団から「共に仕えるために」という派遣している宣教師、日本に来られた宣教師や各地の教会を紹介した冊子が届けられます。日本キリスト教団は今、世界6か国に9人の宣教師を派遣しています。また今赴任してくださる牧師を求めている教会・集会や教団との関係を保っている群れが9つあります。今海外の教会は能登半島地震の被災地などで被害に遭われた方がたに多くの祈りと支援を寄せてくださっています。ここにも神の愛が行われています。そして世界聖餐日はこうしたすべての国々にあるキリストの教会が連帯して、今日の礼拝で聖餐を祝います。私たちがのちほどパンと杯に与る時に、世界の教会に連なる一員であることを喜び、また2000年前のクリスチャンたちの信仰を今ここで継承していることを感謝しながら、神の愛を行う者に変えられるように祈って行きましょう。
今日の箇所の冒頭でパウロは「わたしの愛する人たち」と呼びかけています。これはたんにパウロが大切にしているコリントの信仰者たちというだけではありません。神さまがこのコリントの信徒たちを愛しておられるという意味が含まれています。実はパウロは8章のところから「偶像にささげられた肉」を食べてもよいものかという問題にずっと言及し続けております。だからそれゆえに「偶像礼拝を避けなさい」と神ではないものを神として拝むのではなく、あなたがたを愛しておられる神の方を向きなさいと言っているのです。この偶像礼拝から逃れることができる道をも神は備えていてくださるというのです。
今日の箇所の直前の10:13にはこうあります。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」
神の言葉に従い、活けるお方を仰ぐ時に、そこから「逃れる道」すなわち突破口が与えられます。
15節には「わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。私の言うことを自分で判断しなさい」と記しています。このコリントの信徒への手紙第一 4:10でパウロは、「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています」と言っておりますが、キリストを知ったゆえに人間的な知恵を愚かだと見たのです。しかし、当時のクリスチャンは、この当時の新興宗教を信じる者だということで、知識人や権力者たちから馬鹿にされていたのです。しかしコリントの信徒たちがキリストを知ることによって、やがては霊的に賢くされるのだというのです。
続く16節でパウロがしたためている言葉は、イエスさまが弟子たちと最後の過越の食事をなさったあの2階の部屋に遡ろうとしています。「賛美の杯」または、「(わたしたちが)裂くパン」という表現は聖餐について言い表しています。偶像礼拝者たちはギリシャ・ローマの神々を祀っている神殿において、どのように神々を礼拝するのかと言いますと、牛や羊などの家畜を屠って、そしてその肉を燃やして、その煙は香ばしい香りを神々にささげていたのです。
しかしそれとは対照的に、クリスチャンたちは、賛美の杯からキリストの血にあずかり、(わたしたちが)裂くパンはキリストの体にあずかることではないか、とパウロは言っています。「あずかる」という言葉が大切です。他の聖書の翻訳では「交わり」(青野太潮)と訳される「コイノーニア」という言葉、これは「共有(コイノス)する」と言う意味があります。ですから本田哲郎神父の翻訳では「キリストと血を分け合う仲間になることではありませんか?」「キリストと体を分け合う仲間になることではありませんか?」となっています。私たちはこの「あずかる」「交わる」「分け合う」と言う時に、ただ2000年前のキリストの最後の晩餐を記念しているだけではないのです。イエスさまはご復活なさいました。そして今この時も生きておられるのです! その活けるイエスさまと私たちが一つになり、仲間になる「交わり」それが聖餐の時です。パウロはキリストの血と体を分け合う仲間こそが、偶像礼拝からも逃れる道なのだと言うのです。
ちなみにイエスさまが弟子たちと最後の過越の食事をなさった時には、パンを裂き、そしてその杯からぶどう酒が分け与えられました(ルカ22章など)。教会で祝う聖餐もこの順序を守っていますが、ここでパウロは記しているにはまず「キリストの血」と記してから「キリストの体」としています。これについてはパウロがこの後でキリストの体としての教会について記そうとしていることと関連があると言われています。
17節で「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。復活のイエスから「分けてもらう」パンからクリスチャンたちは一つとなることができるというのです。キリストの体である教会はこの当時、多くの信仰の仲間が増し加えられていました。ですから「大勢でも」一つの体なのだというのです。
そもそもはこの箇所は「偶像に捧げられた肉」を食べてもよいだろうかという問いから発せられたものでした。しかしクリスチャンはキリストの血や肉を分け合う仲間として、一体どなたを信じ、どなたに依り頼んでいくのかということを問うことが「わたしたちは一つの体」であり、キリストの体である教会を形成する一人一人とされています。
今日の箇所にはパウロの本音と言いますか、彼の魂から吐露したような言葉があります。それは20節のパウロは「わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません」というところです。パウロはコリントの信徒たちのことが心配で、心配でならなかったのでしょう。続く21節では「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません」とも言っております。この悪霊というのは偶像礼拝者のことだけではなくて、私たち信仰者を神から、あるいはキリストから引き離してしまうもののことです。イエスさまはある時、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)と言われました。それを彷彿とさせるようなパウロの言葉です。
パウロはまた「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」とも言っています。私たちを取り巻く、悪の力、誘惑の力は信じられないような力で私たちに迫ってきます。それが、私たちが対峙する「偶像」だと言えると思います。しかし、神は皆さん一人一人を守ってくださいます。最初に言いました。今日の箇所はなんという言葉で始まっているでしょうか。「わたしの愛する人たち」でした。神は皆さん一人一人の名を呼んで、「わたしの愛する人」として守ってくださるのです。
ブルーダーという人が『嵐の中の教会』という本を書いています。この記録はナチスの暴虐という嵐が吹く中で、み言葉の真理を守るため敢然と戦ったドイツ農村の一小教会の物語です。極限の状況下にイエスを主と告白しつづける教会を守るために牧師も信徒も心を一つにする話です。ドイツにリンデンコップという小さな村がありました。この静かで穏やかな村の教会のひとつに過ぎませんでした。しかし日に日にヒトラーの影響は強まり、教会も危機的な状況に立たされるようになります。
グルントという名の牧師はこう語りました。「今日、国民共同体はキリストのしるしとは異なるしるしのもとに置かれております。今日では、国民はキリストのしるしなどもう必要ではないと考えるようになっているのであります。私たちが聖晩餐(注・聖餐)に共にあずかることが、それによって私たちが同じ国民から成る一つの共同体だということを表明するためだけであったとしたならば、私たちは聖餐式本来の意味を無視していたことになるのです。聖餐式によって生まれる共同体は、国民共同体よりもはるかに深いものがあります。……私たちは、一人のお方の死を通して、このパンと葡萄酒において、お互い同士結び合わされて一つになるのです」。
いくら田舎の小さな村と言ってもヒトラーの政権下でこういうことを牧師が説教するというのはたいへん勇気のいることでした。世の中はヒトラーの方向へ、方向へと挙って向かっている時ですから尚更です。「ひとりのお方」それはイエス・キリストです。このお方によって「のみ」私たちは一つになることができると宣言をしたことになります。当時、多くの国民はヒトラーこそが優れたリーダーだと口々に言っていた時に、この教会は聖餐つまりキリストのいのちによって一つにされている教会のほうが確実であるのだと牧師は説教しました。そしてそれを「アーメン」(本当にそうです)と受け入れた信徒が一つになった瞬間でした。ヒトラーという「偶像」に酔いしれている多くの国民がひしめいている中で、まことの神さまだけを信じ、従っていこうとする信仰、聖餐がそれを一つにしました。そして神はここでも愛する者たちが「偶像」から逃れる道を与えてくださったのです。
私たちの日本もかつて戦争に突き進んでいった時、イエスさまを最も上に掲げることなく、2番目、3番目に格下げし、挙句の果てにイエスさまを隠してしまうという過ちを犯しました。そして「キリストの体なる教会」は散り散りになっていきました。今、ここに生きている私たちには、とりわけ「危機的な状況」が及んでいるわけではないかもしれません。しかし永遠に無いとは言い切れません。私たちの意識はコリントの信徒たちや、ヒトラー政権下の教会とは違うところにあるかもしれません。しかし私たちは心を一つにして祈るところにのみ神の力が顕されることを信じましょう。そして今日もキリストの聖餐を祝いつつ、私たちが一つであること再確認したいのです。
参考
「共に仕えるために2024―2025」(日本基督教団世界宣教委員会)
『嵐の中の教会 ヒトラーと戦った教会の物語』(ブルーダー著、森平太訳、新教出版社、1989年)