主日礼拝一覧

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「来なさい、そうすれば分かる」ヨハネ1:35-42 中村吉基

今日の箇所はとても単純に見えるが、とても素晴らしい出来事をたった20行足らずに押し込めてあるので、想像力を掻き立てて向き合わなければならない。ヨハネの「神の小羊」という信仰告白を見、イエスに従った弟子たち2人(ひとりはアンデレ)は従って行き、泊まっていた場所に留った。「来なさい、そうすれば分かる」(39節)というイエスの言葉は滞在場所を見せてたかったのではない。そのご性質やお人柄を通して指さす先の神を示してくださったのである。またこの2人もイエスの宿泊先ではなく、主ご自身を知りたかったのである。2人が主イエスのもとに泊まった時、何があったか定かではないが、アンデレはシモンに「わたしたちはメシア(中略)に出会った」といい、シモンを主イエスのもとに導く。この「泊まった」という言葉はぶどうの木の譬えの「わたしにつながっていなさい」と同じ動詞である。2人にイエスはつながってくださったのである。主イエスを心に宿した人は変えられていき、神の力が顕されていくのである。

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「神の愛する子・心に適う人」マタイ3:13-17 中村吉基

洗礼はとても大きな節目である。イエスがヨハネから洗礼を受けたとき、ヨハネはイエスが洗礼を受けることを思いとどまらせようとするが、イエスは洗礼を受ける。すると、神の霊が降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声が聞こえた。神は罪ある人々と同じように洗礼を受けられた主イエスを喜ばれた。主イエスの洗礼にならって、キリスト教会も洗礼を大切に受け継いできた。自然の中で大きな力を持つ水によって一度生まれ変わり、「私はイエス・キリストと共に歩む」という決意を表すのが洗礼である。洗礼は入学式であって免許を与える授与式のようなものではない。「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は私たちにもむけられている。洗礼によって、心に灯された光は輝き続ける。

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「365日毎日が感謝」コロサイ3:12〜17 中村吉基

今日の箇所でパウロはキリスト者とはどのような者であるのか3つのことを教えている。(1)神に選ばれ、(2)聖なる者とされ、つまり、世の罪から切り離されて聖なるものとされ、(3)愛されている存在、であると。神からの愛を受け取り他に分けなければならない。憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして赦すこと、愛を身につけなさいと一種の命令形で語られている。以上のことは心がいつも騒がしく乱されていると実行できない。いつも「キリストの平和」で心が安定していることが必要であり、そのためには「キリストの言葉」が必要である。新年に毎日聖書を開いて、お祈りする習慣をつけてほしい。そして365日毎日感謝できるようになったらこの上なく幸いである。

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「イエスはキリスト」ヨハネ1:1-14 中村吉基

今日の箇所にある「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった」を丁寧に紐解いていくと、天地創造の際にも共におられたようなことになってしまう。なぜだろうか?それは神が2000年前にイエス・キリストを人間にしこの世界にお送りくださったが、キリストはそれよりはるか以前から神のみもとにおられたということをヨハネは伝えている。そしてキリストこそいのちの源、人間を照らす光であるとも記している。続く「光は暗闇の中で」も自然現象の光と闇のことのみならず人生の道のことである。その中で最も明るい光がキリストである。そして「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。肉は人間という意味であるが、ただ肉体のみならずすべてである。それを「受肉」という。人間の罪を許すために神はイエス・キリストとなられて私たちの間に住まわれた。今日はイエスをキリストとして迎えるクリスマス。心からイエスをキリストとしてお迎えしたい。

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「インマヌエル」マタイ1:18-25 中村吉基

引き続きマタイから、今週はヨセフである。いいなずけ(12,3歳頃に約束される)であったがマリアの懐妊のを知り「戸惑い」「考え込」んでしまう。なぜなら当時の律法に反してしまうからである。しかし夢で天使の言葉をききヨセフはマリアを妻として迎える。これは神のご計画であり、普段から神への信頼を篤いマリアとヨセフも選ばれたのである。このヨセフの決断によって、私たちは主イエスをインマヌエルと呼ぶことができる。夢の言葉は、今の私たちにも語られている。主イエスはいつも私たちと共にいてくださる。争いや貧困などで今よりも一人の子どもの小さないのちが誕生するのにしてもさまざまな困難があった。その中でヨセフとマリアに喜んで受け入れられた命を心に刻み感謝と喜びをもって救い主イエスをお迎えしよう。

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「喜び、ひろげよう」マタイ11:2-12 中村吉基

アドヴェント3週目喜びの主日と呼ばれる日を迎え、先週に引き続き洗礼者ヨハネである。既にヘロデ王によって牢にあったヨハネはイエスの活躍を耳にしすぐに弟子を送り、彼が救い主かどうかを確かめる。想像していた強い指導者ではなかったからである。遣わされた弟子に対しイエスはイザヤ書をひいてお答えになった。その中にある「貧しい人」とはたんに経済的に困窮しているだけではない。障害など様々な理由から自由を失っている、しかし神様は救ってくださるという希望を見失わない人である。人生の困難や世界で起こる戦闘などで不安もあるが、ヨハネが「来るべきお方」と呼んだ救い主が友となってくださっている。希望を失なってはならない。ヨハネは自分の使命をわきまえて最後まで忠実に果たした。イエスが「偉大な者」と言った所以である。ヨハネに倣って神の愛を周りに伝えていくことが私達のつとめである。クリスマスを前に一人でも多くの人に神の愛を伝えよう。

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「その日、その時を知る神」マタイ24:36-44 中村吉基

待降節にはいった今日の箇所は直接クリスマスではなく終末の時(その日、その時)の再臨についての教えである。イエスが語っているのはノアの話、平和な時代に人々は自分の生活ばかり優先し放縦な生活を送っていたがノアだけは神の御心を受け止めた。そしてあの洪水である。続く40節での譬えは人の子の到来の日のこと。いつ来るかは誰にもわからないが「思いがけない時に来る」と書かれている。そのために目を覚まし、わからないことをわきまえて、用意していなければならない。今日の旧約の箇所のイザヤは「終わりの日に」と救いの日の訪れを表現している。もはや戦うことを学ばないとイザヤは宣言している。待降節は、クリスマスにむけて信仰を省みるとき。地上に平和がもたらすために神が願い、イエスが来られた。この世界が平和になるように待ち望み平和を作り出す人になることができるように祈りたい

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「わたしを思い出してください」ルカ23:33-43 中村吉基

待降節前の今日は伝統的に「王であるキリスト」にちなんだ聖書箇所が読まれる。おとぎ話や海外の教会にある像などで「王」の印象はあるかもしれないが、今日のルカの福音に描かれた主イエスの言動から本当の王を聴いていきたい。十字架の主イエスを最初にあざ笑うのは議員たち、兵士たちも同様であり、ついには十字架につけられていた二人の犯罪人のひとりもののしりはじめる。頭にはユダヤの王と書き、彼らの言い分は「本当の救い主なら自分を救ってみろ」と言い、酸いぶどう酒を飲ませて侮辱する。彼らはイエスが本当の救い主であるはずがないと思っている。彼らは、私達もよくやってしまうが、神を試している。神はやろうと思えば、力あるヒーローのようにこの状況を変えることができた。しかしそのような「力で屈服させる」のは神のやり方でもイエスの生き方でもない。神は決して私たちを操ろうとはされず、人間に対して心に愛をもって迫る。イエスの生涯はそのためのものであったともいえる。主イエスは迫り来る死を前に悲しむ女性たちを慰め、十字架につける兵士達のゆるしを願い、自分の罪を悔いているもう一人の犯罪人には救われることを宣言された。そのような主イエスの姿に私たちは愛を見ることができる。「自分のために、自分のことだけに」固執するのではなく、主イエスと一致して歩んでいく人生になることを神は望んでおられる。ルカの福音書だけに記されているこの罪人の言葉「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」に対し、イエスは神の国の王として約束した。この罪人の祈りを私達の祈りとしたい。そして自ら十字架への道を歩んだ主イエスこそが私たちをあらゆる悪の支配から解放し神の国へと招いてくださることを信じていきたい。

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「あいしあいなさい」コヘレト12:1 中村吉基

(子供祝福礼拝。お子さんと一緒の礼拝です)。F牧師の娘「るつ記」さんは、一生涯を日本人のために捧げたキュクリッヒ宣教師を小学生の頃から尊敬し、やがて大きくなってから外国人のために働く夢をかなえるべく外国で奉仕活動をしていた。大学卒業後フィリピンに留学し海岸で子供たちと水浴びをしていた際底流に巻き込まれた子供を助けるため亡くなってしまった。今日の聖書箇所は「互いに愛し合いなさい…友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というイエス様の言葉である。愛し合うとは目の前にいる人を「たいせつにする」こと。自分のためだけに神様が下さっ命を使わないこと。自分のことだけ考えそうになったら「神さま」「イエスさま」ってお名前を呼んで、力をいただくこと。私達のそばで助けを必要としてる人がいるはずで、その人たちをたいせつにすることがイエス様の教えにある「愛し合うことにつながる。

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「何事にも時がある」コヘレト3:1-8 中村吉基

今日は先に天に召された聖徒の皆さまを記念しつつ、ご遺族の方々、関係者の方々をお招きし、礼拝を捧げている。 聖書の時代の王の平均寿命は44歳、庶民は30歳前後と考えられている。それに比べると現代は驚くほど長く生きるが、その人生は苦楽が交互に来る「想定外」続き。不運や不幸に会う方もいる。今日の箇所のコヘレトの言葉にその全てが書かれているといってもいいのではないか?キリスト者には「殺す」「憎む」「戦い」などは無縁と思われるかもしれないが、「想定外」に一歩踏み間違えれば過ちを犯してしまう弱さを抱えている。しかし神からすればすべては「想定内」、「定められた時」なのである。 コヘレトは旧約聖書の中では「箴言」などと同じ知恵文学に属する書物である。しかし他と決定的に違うのは「この世のすべてはあらかじめ運命によって定められており、決して変えることはできない」という考えに立っていることである。私たちが「何事にも時がある」ということを予め知っていれば、自分の人生に起こることは「神のみ心」であると信じることができる。イエス・キリストもそのことをよく理解していた。主イエスは宣教の第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と仰った。言い換えれば「いよいよ神の定められた時が来た」ということである。我々の人生はすべてのことが神の「時」の中で進められている。