「無からの出発」フィリピ2:6−11 中村吉基

イザヤ書53:1−12;フィリピの信徒への手紙2:6−11

今日与えられました聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙からです。このフィリピの教会というのは、他のコリントとかガラテヤにある教会よりも比較的深刻な問題を抱えていませんでした。しかし神の教会といえども、それは人間の集まりです。内側に問題を抱えておりました。今日の箇所ではありませんが、4章にはまず2人の女性たちの実名が挙げられ、この2人はたいへん熱心な信仰でパウロの協力者であり、教会の指導的役割を担っていましたが、今は相争っている関係にありました。この現代においても耳にしたことがあるようなことが2000年前の教会にも起こっていたのです。

あるいは1章にはキリストを宣べ伝えていくのに「ねたみと争いの念にかられてする者」(15)や「獄中のわたし(パウロは獄中でこの手紙を執筆した)をいっそう苦しめようという不純な動機」(17)を持つ者もおりました。そして何と3章にはキリストの十字架の救いを否定する者(18)までいたのです。さまざまなキリストに対する思い、さまざまな信仰心からこのような結果が生まれていたわけですが、しかしパウロは驚いたことに1章18節で、

「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」

とキリストが揺るぎなくそこに宣べ伝えられているならば、喜びであると言うのです。そしてパウロは同じ1章27節では「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と言っています。復活のキリストを仰ぐことにおいて私たちは一つになれる。たとえ今、向きが違っていても、バラバラであってもキリストへの信仰が私たちを一つにさせるのだと書き綴っているのです。

教会にはさまざまな人々が集まっています。週日には違うところで生活をして、仕事や勉強などしていることも違います。しかしこのように礼拝を共にし、同じ神を仰ぐ群れとして、教会共同体は維持されています。これまでにあまり話し合う機会はありませんが、もしかしたら神への思い、イメージ、熱の込めようも違うことでしょう。しかし、復活のイエス・キリストを礼拝する群れとしてここに不思議な神の力によって集められています。この教会を通さなければ一生の知り合うことがなかったかもしれない間柄だったかもしれません。奇しき神の御心のうちにここに集められています。私たちはまずキリストにおいて一つとなることができることを今日私たちの心に刻みつけたいのです。

そこで今日の2章6節からのところです。原始教会に伝わる「キリスト賛歌」。賛美歌であったと理解していただいていいでしょう。このキリスト賛歌をパウロが手紙に引用しています。まず6~8節までがキリストが人間となり、へりくだられたこと、続く9~11節までにそのキリストが神によって高く挙げられた者となったことが記されています。ここを理解するにあたって本田哲郎神父の訳に聴いてみるとまた新たな目が開かれますので引用いたします。

キリスト・イエスは神としての在り方がありながら 神と同じ在り方にこだわろうとはせず、自分を明け渡して奉仕人の生き方を取られた。イエスは見たところ他の人たちと同じであった。すなわち姿はひとりの人にすぎないイエスが、自分を低みに置き、神の従属者として立たれた。それも死を、十字架の死を引き受けるまでに。だからこそ神はキリストをたたえ上げ、あらゆる名に優る名をお与えになった。こうして、天上のもの、地上のもの、地の下のものがすべてイエスという方を身に帯びて膝を折り、「イエス・キリストは主(神)である」と口をそろえて告白して、父である神を輝かし出す。(新世社『パウロの「獄中書簡」』より)

本田神父はキリストのへりくだりを模範とするのではなく、「低みから働く神を啓示しているキリストの賛歌」というのです。ここでは「こだわろうとはせず」とあります。キリストは神と等しい生き方を断念したのでもなく、捨て去られたのでもなく、それに「こだわらなかった」。私たちの聖書に訳されてる「固執しようとはせず」という言葉にはそのようなキリストの思い、使命とも言うべき御心が裏打ちされているのです。そして人間として人間すべてに対して、自分を救い主として差し出されたのです。そして7,8節に「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあるように、ご自分を一旦「無」にされ、「僕」となられたのです。「僕」とは奴隷のことです。人々に仕える奴隷です。神と等しくあったお方が、奴隷になる。世界中の宗教や神話を見ても、奴隷になった神があったでしょうか。これは私たちのイエス・キリストだけが成し遂げられたことです。そしてこの奴隷の姿のキリストは私たちに何を教えているのでしょうか。

それは自分を捨てて、無になって相手に仕えるということのみ、人間として本当の喜びを感じることができるからです。一人ひとりの人生の中で、たとえ自分が「低み」にいたとしても、神はそこから必ずこの「私」を救い出してくださるのだということです。言い換えれば「喜びの希望」とでもいいましょうか。自分を捨てて相手に仕える、奉仕すること以外に本当の喜びはないということをキリストは身をもって教えられたのです。キリストを模範としてへりくだる生き方ではない。主イエスの生きざまを知れば知るほど、低いところから助けてくださる、恵みの中に包んでくださる主イエスに私たちは出会うことができるのです。

普段の私たちは何かを獲得することを求めています。知的なもの、物質的なもの、しかし何をどれだけ手に入れても喜びには繋がらないのですね。むしろたくさん得れば得るほど、飢えて求めたくなるのが人間です。逆にそれを捨てれば捨てるほど、喜びに満たされるのです。「無」になるのです。私たちが自分を捨てて与える愛が喜びとなり、生きる希望にもなるのです。そしてパウロは「十字架の死に至るまで」キリストは(低みから)従順に生きられたとこのキリスト賛歌に付け加えています。それは十字架の救いを否定する反対者たちにパウロが渾身の思いをもって証言していることに他なりません。キリストが無になったお姿で、人びとに仕えられたということ、またキリストは十字架の死において一旦無になられたところから復活の新しいいのちが神によって与えられたということを、今朝まず私たちの模範として知りたいのです。

キリスト賛歌の後半の部分に戻ります。9節からです。

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

十字架の死に至るまで、キリストは従順であられました。そのため、神はキリストを高く挙げられました。実はこの9節から主語が変わっていることにお気づきでしょうか。今まで「キリスト」が主語であったのに対してここからは「神」が主語になっています。神の強い力によってキリストが高く挙げられたことを現しています。このことによって私たちはキリストを「主」と崇めることができるようになったのです。

もう60年以上も神父をしておられる方の証しを最近読みました。その神父様は「神」がわからなかった、と言いました。しかし、ある時イエス・キリストを通して、造り主である神を見た、と言われました。彼が洗礼を受けて60年経って得た信仰の喜びでした。同じように私たちも神の姿を見たことも、声を聴いたこともないかもしれません。しかし、私たちには復活のイエス・キリストが与えられています。そのキリストを通して、神とはこのようなお方だと感じて、信じることができるのではないでしょうか。そしてイエス・キリストに跪き、礼拝することは造り主である神を礼拝していることでもあるのです。

信仰的な不一致にあったフィリピの教会にパウロはキリスト賛歌を獄中から書き送りました。それはキリストにおいてこそ私たちは一つとなれるのだ、と言うことを伝えたかったのです。そしてキリストを礼拝し、キリストを模範とした愛の生き方をする教会こそが本当に神の御心に叶った教会でなれるのだとパウロは確信していたのです。