「神の前に立たされて」マルコ10:17−27 内田弥生

出エジプト記20:1−17;マルコによる福音書10:17−27

はじめに、神学校に導かれた理由といきさつについてお話しいたします。神学校に行ってみるとわかるのですが、誰が先生で誰が生徒かはわかりません。立派な白髪の方が神学生だったりするのです。先生だと思って挨拶すると、なんだか損をした気持ちになるのは、おそらく私だけだと思うのですが。なーんだ神学生だったのか、ということもあります。

私はカンバーランド長老教会のあさひ教会に所属しています。プロフイールにも書きましたが、横浜市鶴ヶ峰という相鉄線沿いの駅から徒歩10分程度のところにある教会です。中村先生と同じ日本聖書神学校出身の鈴木淳(あつし)牧師のもとで長老として奉仕しています。小さな教会のために、週報から会議のアジェンダ、会議記録、毎週の説教の要約のようなものと感想をFacebookにアップしています。写真を撮ってはFacebookにもアップして、あさひ教会をアピールするのが私の役割です。また、牧師が教会を立ち上げたと同時に始めた福祉事業を手伝っています。今でこそ、デイサービス、スポーツデイ、居宅事業(ケアマネージャーのいる事業所)と3つの事業所がありますが、2008年に始めたときは、デイサービスに利用者さんが3人ほどで、スタッフの方が多いくらいでした。15年が経ち、スポーツデイで延べ120人の利用者さん、デイサービスで延べ80名ほどの利用者さんがおります。

すべて横浜市の規定の中で行なっている関係で、牧師は、所長として、またケアマネージャーとして、寝る暇もないほど、まあちょっとは寝ておられると思いますが、働き詰めです。日曜日には礼拝説教がありますから、その準備もあります。

私は子どもが3人おりまして、鶴見区から引っ越して3人目の幼稚園を探すときに、希望が丘のカンバーランド長老教会希望が丘教会の幼児園と巡り会うことができました。実は鹿児島出身ですが、鹿児島で唯一のキリスト教の中高一貫の学校に通っておりました。そこはシスターがおられるカトリックの学校でした。

そこで私はシスターになるのが夢になりました。しかし、実現することなく今日に至りました。あの時カトリックで洗礼を受けていたら今はありません。

次女が幼児園に通っている時も、教会の敷居は高く、150名以上の教会員のいる教会でしたので、この人たちの中に入ることができるはずがないと思い込んでいました。私の席など用意されていないという想いでした。ヒガミっぽい性格なのだと思います。

次女が卒園する頃には、幼児園のお母様の教会員の方とも親しくなりましたが、「あなたがいくら洗礼を受けたいと思っても、神様が招いてくださらなければ、洗礼は受けられないのよ」というガラスの私の心を粉々にするような言葉にも傷つきました。しかし、今ならその言葉のこともわかります。

希望が丘教会に副牧師としていらした鈴木牧師から「牧師になってみませんか?」と言われた時も、「私なんかが牧師になれるわけがないじゃないですか」と取り合いませんでした。私がなれるはずがないと、これも思い込んでいたのです。その時はまだ洗礼も受けておりませんでした。

しかし、ある日勤務先に向かう途中の駅の喫茶店でコーヒーを飲んでいる時に、お尻の下から胸まで、盛り上がってくるような「洗礼を受けたい」という思いに溢れたのでした。2000年のクリスマスがもう直ぐという寒い朝のことです。なぜか不意にその思いは膨れ上がり、その日の夕方まで続きました。家に帰ると、3人の子供たちで賑やかなはずのリビングもシーンと静まり返っておりました。電話するなら今しかない! と思った私は、牧師に電話をいたしました。クリスマス礼拝前の諮問(しもん)にギリギリ間に合うタイミングでした。

洗礼を受けた日に、聖歌隊に入隊し、ハンドベル、CSの教師、ボーイスカウトのリーダーとありとあらゆる奉仕に明け暮れました。まるで水を得た魚のように教会を縦に横に泳ぎ回りました。牧師が事業を立ち上げるために今のあさひ教会に移られた時も、率先して私も従いました。事業を始めて15年が経ちます。牧師の多忙さは極まり、信徒はみな牧師の健康を心配しました。この教会と事業を救うのは私しかいないと、神学校に通うことを決意しました。1年間聴講生として、次年度は、その頃鈴木牧師は心労のために休養されておられたので、代務の牧師に、「神様のみ心でなければこのことの道を閉じてください」という厳しい祈りの中で、神学校の正科生として送り出されました。落第点ギリギリの点数をいただきながら2年生となりました。教会の友人などに会うと、「すごいわね、私にはできないわ」と声をかけられます。「すごくないし、あなたにもできる」と口に出しては言いませんが、心の中でそう思うのです。ただその一歩が踏み出せないだけで、あなたにもできるのですと思うのです。

しかし、かつての私は、牧師になんてとんでもない、なれるはずがないと思っておりましたからその時が来ないとわからないことなのかもしれません。しかし、まだ今はその道の半ばです。牧師になるにはまだまだ乗り越えなくてはならない壁が立ちはだかっています。私は知らずに洗礼を受けてからずっと「この身をお捧げしますから、どうぞ私をあなたのお役に立ててください」という祈りをしていたのでした。それは「献身する」、牧師となるということを意味することだと知らずに祈り続けていたのでした。神学校で「献身の集い」というのがあるのを知り、そうだ、私はこのことをずっと祈っていたのではないかという思いに至りました。卒業すると70歳ですから、カンバーランド長老教会では牧師の定年の年となります。多忙な牧師を少しでも助けたい。そのことが私を突き動かしました。しかし、それは神様のみ手のうちになされたことであることを今は確信しております。私の両足は神様の差し出したみ手の上に置かれて歩いていると。神の助けなしには今の私はありません。祈りは、最初はものまねでも、きっといつか本当の祈りになる。偽物でも、続ければきっといつかは真実になる。知らないことも求め続ければ、きっと知ることができるようになる。このことは、たとえ、今はわからないことも、きっとわかるようになるという、神様のみ手の中にあることを思い知らされるのです。

神学校の図書館の入り口のプレートに卒業生の名前が刻印されています。カンバーランドの先生方のお名前もいくつも見つけることができますし、中村先生のお名前もありますが、最初は怖くて見ることができませんでした。ここに私の名前も刻印されるのだと思い上がった気持ちで見ると、目が見えなくなってしまうかもしれないという恐れがありました。それは、本当は牧師になんてなれないものが、牧師になるために神学校にたどり着いたことへの後ろめたい気持ちとでも言いましょうか、校舎を歩くのも、実は恥ずかしいくらいなのです。神学生と言えるほどの者ではないことを、一番良く知っているからかもしれません。

内田神学生と言われると、背筋がぞくっとします。しかし、今こうして代々木上原教会の皆様の前に立っております。学校に通うようになり、このような私が神学校にいることで実は私自身が救われていると感じでおります。神様がすぐそばにいて助けてくださっているということをこの身に感じるからかもしれません。

********

本日の箇所は、マルコによる福音書の金持ちの男の話です。イエス様は旅にでようとおそらく道に出たところだったと思います。

ある人がイエス様を見つけて走り寄ってきます。

そしてひざまずいてイエスに尋ねます。走り寄ってひざまずく姿から、イエス様を見つけて、一心に自分の目的を果たすために希望に燃えている青年であることが想像できます。「善い先生」とは、ギリシャ語を辿ると、「尊敬する師よ」、いう意味もあります。「永遠の命を受け継ぐには、何をしたらよいでしょうか」きっと、この一人の青年は、後のやりとりを見ても分かる通り、これ以上何をすれば、永遠の命を得ることができるのか。するべきことは全てやってきたのだから、という思いが見て取れます。

イエス様は、これに対して、「なぜわたしを善いというのか。神お一人の他に善い者は誰もいない」と拒絶します。こんなことを言う方は一体どういうお方なのかと、もしも気がついたら、その後の答えも違っていたかも知れません。この一人の人は、イエス様のことを、偉い律法学者の一人であるとしか思っておりませんでした。イエス様は、加えてモーセの十戒の倫理的十戒と言われる後半の掟を示します。すると、「先生、そのことはみな、子どもの頃から守ってきました」ユダヤ教の教え、律法を私は守ってきましたと、イエス様に言っているのです。こんな恐ろしいことをイエス様にいうことのできる人を、私は他に知りません。守れないことを、守ろうと努力したのではないのです。守ってきたと言い切っています。すると、イエス様は彼を見つめ、慈しんで言われた。この慈しんでという言葉は、ギリシャ語の愛するという言葉が基になっています。慈しんでとは、愛してと言っても過言ではありません。

この、守ってきましたという一人の人を、イエス様は愛されたのです。

自分が富んでいるが故に、なんと息苦しい、不自由な人生を送ってきたであろう、この人を、愛をもって見つめたのです。

見つめる、この行為はイエス様が、その人の命に関わってくださるときにされた行為です。この人の求める思いを満たしてあげたい。深くコミットする時の眼差しです。マルコは好んでこの「見つめる」という言葉を用いました。私たちは、相手を見つめて何かを言うということが多くはありません。私など、夫を見つめるときは、文句を言う時だけです。なので、私が見つめると、夫は恐怖の顔をするくらいです。

しかし、イエス様は違います。愛をもってじっとみつめてくださるのです。

ペトロがイエスを知らないと3度知らないと言った時に鶏が鳴いた。三度も主を否定してしまったペトロにルカ22章61節「主は振り向いてペテロを見つめられた」この後ペトロは主の言われた言葉を思い出して外に出て激しく泣くのです。この時もイエス様はペテロを非難して見つめられたのではないのです。弱いペトロだから愛されたのです。……そして私たちもそのまなざしでみつめられている! のです。

イエス様は「あなたに欠けているものが一つある」と言われます。金持ちのこの人は、全て満たされていた。小さい頃から敬虔なユダヤ教徒として厳しい戒律も守ってきた。何不自由なく暮らしてきた。満たされていたのに、なぜ、この偉い先生に、他の先生ではない。このイエス様に「永遠の命を受け継ぐには、何をすれば良いのでしょう」とひざまずいて聞くのでしょうか。

私たちが教会へ導かれたのは、それぞれの理由や、物語があると思います。しかし、何をすれば永遠の命が得られるかと、そのことを求めて教会に集われておられる方はそうはおられないと思います。いえ、私は永遠の命を得るために来たんだ。という方がいらしたらすみません。しかし、多くの人は、何をしたらよいかわからないので教会に来られたのではないでしょうか?

この人は「何をしたら?」と問いました。私たちは、「何かをする」ということにおいて、喜びや悲しみを味わっているのではないでしょか。「あー、ああしなければよかった」、「こうすればよかった」。「あんなこと言わなければよかった」、「こう言えばよかった」。その反対もあるでしょう。そのことの連続です。息する暇もないくらいです。何かをすることにいつも迫られています。しかし、その「する」という行為によって、私というものが成り立っているのです。そして、人から褒められたり、けなされたりしているのです。

しかし、イエス様は彼の言う意味での<何かをする>ことが永遠の命に至る条件だとは言われなかったのです。

この人には一つだけ欠けているものがあるとイエス様は言われましたが、実は欠けていることはたくさんあったに違いありません。数えればキリのないほどです。神様は、私たちの髪の毛の1本も数え忘れることのない方です。しかし、イエス様は、この人の人生をひっくり返すような一つのことを告げました。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。」彼はその言葉に答えることが出来ませんでした。たくさんの財産があったからです。この人は貧しい人に施すなど考えたこともないのかもしれません。財産に縛られ、いかに増やすかということに腐心はしていたかもしれません。失ってしまうこと、財産が減ってしまうことを一番恐れていたかもしれません。その財産がその人を支える唯一の確かなものだったからです。その人は、法律も守ってきました。正しい人だったのです。しかし、捨てられないものが一つだけあった。それは持っている財産でした。その人の人生の上にどっかりとのしかかって、がんじがらめにしていたのでした。その唯一のものを、ただ一つ欠けているものとしてイエス様が示されたのです。

ここの「気を落とす」という言葉は「言葉に驚く」とも訳すことができます。この人は、もしかしたら、「法律も守っている正しい人よ、あなたは正しい人なので、たくさんの財産を持つことができた。だから永遠の命の秘密を、あなたには与えよう。」という言葉を期待していたかもしれません。自分の予期しない言葉に、気を落とすことは、私たちも日常で経験する事柄です。褒められると思った時はなおのことです。このイエスの言葉に驚き、肩を落として帰っていく人の姿は私たちの姿に重なります。人生は期待通りには物事を運んでくれません。期待すればするほど、失望も大きいのです。この悲しみながら立ち去る人を、笑うことはできません。一番必要としているものを捨てなさいと言われて、「はい」喜んでと言える人は多くないでしょう。

さしずめ、現代でいえば、「あなたの携帯を、今すぐ捨てて、私に従いなさい」と言われたらどうでしょう。脳があの小さな箱に乗っ取られています。電車に乗ると、一人を除いて、まあ二人くらいは携帯に見入っている人がいないとしても、寝ている人でさえ、携帯は開いたまま、その手にしっかり握りしめられています。時々、その携帯が手から滑り落ちて、眠りから覚める人もいるほどです。と言うのは、ある日携帯を忘れて家を出てしまいました。引き返すと学校に間に合いません。仕方なく携帯なしで、電車に乗りました。すると、自分が携帯に目をやっていないために、人々の姿を観察する機会を得たのです。若者も老人も、ほとんどの人が、この電車が脱線しても携帯から目を離すことはないのではないかと思うほどでした。何をよりどころにして生きているのか、その箱の中に何があるのか。いつも私もしていることですが、一旦それが私の手の中にない間は、周りの人々の中にその現状を目の当たりにすることができたのです。「あなたのその携帯を捨てて、私についてきなさい」

この一人の人には、たくさんの財産がありました。私たちにも自分の大切にしているもの、大切な人があります。それを捨てて私についてきないさいとイエス様は言っておられるのです。捨てるだけではなく、そうした上で私に従いなさい。と言っておられるのです。イエス様の求められたのは、彼の思っている<何かをする>ための資源を捨てる、ということでした。自分の力で<何かをする>ことを放棄して、何も持たずにイエス様についていくことなのです。

『キリストに従う』に記されたボンへッファーの言葉を借りると、永遠の命を問う一人の人は、救いに関する問であり、真剣な問いであるとしています。そして、自分の期待している答えを探していると言うのです。しかし、それは神ご自身の前に立たされたと言うことなのです。人間を苦しめかつ奴隷のように従わせるところ、まさにそういうところでこそ、「道徳的苦悶のまったき無神性が暴露され、またその苦悶は、全く神とはかけ離れて真摯(シンシ)さを欠いた決定的な不従順として示されなければならない。真剣な行為はただ従順の行為のみであって、それがこの道徳的苦悶に終止符を打ち、それを破壊し、またその従順の行為において我々は自由にされて神の子となるのである。それがこの一人の人に突きつけられた神の診断である」としています。

すなわち、人を苦しめている苦悶は、神とは全く関係のないところで起きている。そのことは、神に従順であるということのみが、あらゆる苦悶から人が解放されて自由になり、神に従うことで、神の子となりうるのである。天の国に入ることのできるそのことが、この一人の人に示されたいわば神のお墨付きの診断書のようなものなのだと言っているのです。神の前に立たされた一人の人であるのです。前に、自分の力で自分の持っているものを捨てると申し上げましたが、それは、しかし、自分の力ではなく、神によって取り除かれていくものだと思うのです。そして、真に自由におなりなさいということではないでしょうか。

「みな守ってきました。他に何が足りないのでしょう」

神の前に立たされている人は、困惑して悲しみながら去っていくのです。イエス様は、全てを捨てて従ったならと言っておられますが、それは、「みずから進んで貧しさを担うようにすすめたもうイエスの要請だ」とボンへッファー言っています。その命令を下すのは他ならぬイエス様と言うことです。私たちが自ら捨てるのではなく、神が診断を下すのです。神がそうさせてくださるのだと言うことなのです。

弟子たちに目線を動かして、さらにイエス様は語ります。「財産のあるものが神の国に入るのはなんと難しいことか」弟子たちは、その言葉に驚く。この一人の人のように弟子たちも驚くのです。そして、その頃の一番大きいらくだと一番小さいと思える針の穴を例に出していかに難しいことであるかを示されます。善い行い、正しこと、イエス様にひざまずくこと、そう言うことではないと言っておられるのです。教会へも行けない貧しい人がいます。体が清くないために、教会の門の端に座っている人々がいます。そのような人々を、現代も私たちは見過ごしてきているのではないでしょうか。主日に礼拝に出席して、聖書を読み、祈っている。しかし、それは、「何かをする」と言うことに留まっているのです。イエス様は、天の国を先取りしてお話をされました。自分のもっているものを捨てたものは、今この世で迫害を受けるが……当時は、ローマ当局から迫害を受ける受難がありました。しかし、後の世では、天の国ではその100倍も受けるということを話されます。この世は仮の姿。天の国に帰って、私たちは神から本当の豊かな祝福を得ることができる。しかし、それは、この世で持っているものを捨てたから、イエスに従ったからと言うことではない。「先にいるものが後になり、後のものが先になる」当然わたしは天の国で永遠の命を受けることができるのだと考えてはならない。そのことは全て、次のことにあるのです。

イエス様の私たちへの答えは、そしてイエス様にひざまずいた人への答えは「わたしはあなたを招く、それが全てだ」と言うことです。神の前に立たされて、神の招く声を私たちは聞くことになるのです。

(祈り)
この主日に、代々木上原教会へ招いてくださった神様、心から感謝いたします。このようなものを遣わしてくださったみ心をありがとうございます。私たちは、あなたの元に集められ聖書を読み、あなたのみ言葉にあずかるものです。私たちの握りしめているものをあなたが一つずつ取り除いてくださり、日々新しくしてくださっていることをありがとうございます。あなたに従えない弱い一人一人を励まし、今日も明日も生かしてくださっている神様に感謝いたします。金持ちの一人の人の姿は私たちの姿です。がっかりして、あなたの前から去っていくような者の一人です。あなたの憐れみと慰めで、そしてこれからも続く歩む道をあなたが守ってください。そして招いてくださる神に感謝いたします。アーメン