礼拝説教一覧

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「少女よ、起きなさい」マルコ5:21-24a.35-43 廣石望

日本でコロナ禍の影響下で自死した人の数、ウクライナでの戦いなど、死が命をあざ笑っているかのようだ。今日はヤイロの娘の話を手がかりにイエスの命の守り方、復活信仰とは何なのかを考える。 ヤイロスに要請をうけて同行するイエスに次々と邪魔が入る。押し寄せる群衆、出血の止まらない女、そして当の娘の死、人々の嘲笑…しかしイエスはそれを乗り越えただ信じることを命じ、少女に起きなさいと言い、彼女は立ち上がる。現代に生きる我々も、その時代を生きる人々にも理解を超えることであるが、それを通してこの話ではすべてを新しくする「神の王国」の到来を現実化した。 ヨハネ福音書に記されたラザロの復活を読むと、復活信仰とは神の命を与えるイエスへの信頼他ならない。イエスが呼びかける声を聞き、今の世界に神の命から「生きる」ようになるとき、命をあざ笑う死の現実に、今ここで抗えると信じたい。

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「備えあれば憂いなし」ルカ12:32-40中村吉基

当時の主イエスの一門は、吹けば飛ぶような小さなグループで社会の中での影響力はほとんどゼロに近かった。主イエスは弟子たちを励まして、そんな彼らに勇気を与えたのが今日の福音の言葉である。どんな状況に置かれても彼らを愛し、彼らのことを忘れない神がおられる。 弟子たちは自分の賜物、時間、力、思いを主イエスのためにささげた。「小さな群れよ、恐れるな」という福音のことばは、今の我々に語られている言葉である。忙しさにかまけて自分のことを優先してしまっていないか。しかし、力・時間・思いをささげて行動することで教会の足腰は鍛えられていく。 最後の晩餐の折に、主イエスは自ら弟子たちの足を洗い、新しい食事(聖餐)を制定された。これは、すべての人が招かれている救いの宴を先取りして祝われるものである。すべての人が神にあってその喜びに与る日まで今日も礼拝をささげている。普段の生活の中で、備えて生きるためであり、大きな希望を信じて生きるためである。

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「最後まで」ヨハネ15:9-21  中村吉基 

日本キリスト教団が8月第1日曜日を平和聖日としてから約60年、この時だけ平和について考えればいいわけではなく常に「平和を作り出す者」としての行動が求められる。最後の晩餐の時、イエスは弟子たちを友と呼び、主イエスが選んでくださったことを語られる。弟子たちの中には、あるいは現代を生きる我々の中にも、自分からキリストを求めたと言うかもしれないが、逆の見方で見てみると簡単にそれを棄ててしまうことができる危険性をはらんでいる。本物の信仰は、いのちの造り主である神に委ね、すべて神の選びによるのだと信じられるどうかにかかっている。一人 では至難の業であるが、教会がある。一緒に信仰を育み「最後まで」光の中を歩んでいくのである。

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「本当の豊かさとは?」ルカ12:13-21 中村吉基

イエスに相談に来た人にイエスは金持ちのたとえ話をする。金持ちが豊作すぎて倉に入りきらないという悩みである。そして彼は今ある倉を壊してさらに大きい倉をたてようと思いつく。しかし神は金持ちに愚か者という。そしてイエスは自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ、と続ける。金持ちの男は非常に自己中心的である。それは彼だけではない。私達とて自分の周りのことだけに執着していないか、苦しみからの脱却を求めて宗教に頼っていないか。苦しい時の神頼みではなく、順調な中で神と共に生き生かされいるのが私達の信仰である。本当の豊かさとは、倉をつくって貯め込むことではなく、喜んでだれかに差し出す中に与えられることであるとイエスは言われいてるが、それは2000年後の我々にも通じる言葉である。

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「あなたがたは神の家族です」エフェソ2:14-22 宮島牧人(原町田教会)

牛久に赴任になったのを機に通い始めた入管収容所。そこに収容されている人は、命の危険があるため国に帰ることもできず、難民申請をしているが認められず不法滞在者として収容される。しかも近年ますます厳しくなってきている。彼らを入管職員を犯罪者のように扱うが彼らは書類不備なだけで犯罪者ではない。しかも収容期間に終わりはない。そんな生活の中で収容者の絶望は深い。また通っていても無力さを感じずにはおれない。悪い結果が待っていても、仲間やみ言葉に励まされて、こんなに小さなわたしであっても神はまだ用いてくださると思うことができる。19節「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」。すべての教会は自分の国に来ている外国人に向かってこの19節を福音として伝える。「教会にどうぞ来てくださいあなたたちも神から生まれた神の子ども、神の家族だからです。」

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「たった一つ、あったら良い」ルカ10:38~42中村吉基

今日はマルタとマリアの話である。教会生活が長いとどちらのタイプなどと話題になる。今日のマルタから省みなければならないのは、自分のしていることがうまくいかない時に他人にあたるような態度をにじみでてしまっているのではないか。また多くのことに思い悩んでしまっているのではないか。マリアが選んだ「良い方」とは「神の国をもとめること」である。つまり、主イエスが示してくださった愛が、自分の利益のためだけに使われることは本望ではありません。私たちは他者のために愛し、他者のために奉仕することである。しかし私たちは本当に弱さを抱えていますから、マルタのように忙しくなってしまったり、余裕がないときには、神のことをすっかり忘れてしまう。しかし忙しい中でその中で、どのように神を敬い、神との時間が取り「神の愛の伝達者」として私たちが行動する全てのところに主イエスのみ言葉の種まきが出来るようにしていきたい。

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「私の隣人とは?」ルカ10:25-37 中村吉基

イエスが宣教していたガリラヤは貧しい地方であった。懸命に開墾しても税金がとられ破綻してしまう。イエスは社会の中で差別された人々と交流し、どんな人であっても「神に愛されている人」とした。それはガリラヤという辺境に生き、人間扱いされてこなかった人々に、主イエスの教えはまさに「よいニュース」であった。 今日の譬えのサマリア人は、当時のユダヤ人からすれば決して「隣人」の範疇には入らない。しかし、このサマリア人は祭司やレビ人が通り過ぎる中、傷ついた旅人を介抱し宿屋につれていって費用まで払った。私たちも、このサマリア人のように、その人の痛みと自分の痛みとして、すべての人を隣人として寄り添うものでありたい

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「一人より二人」ルカ10:1-9 中村吉基

今日の箇所では12人の使徒に続き72人を派遣したとある。72とは全世界の民族の数とされる。派遣の際は「二人」ずつであった。お互いの協力、互いの思いやりを通して、言葉ではなく行いで神の愛を伝えられるし、旧約では証言するときには、一人ではなく二人の証言が有効なものだと考えられていた。宣教では、石を投げられるなど厳しい場合もある。イエスはとても案じ続けてらした。また何も持たず行けという少々酷な言葉もある。ただ「神の国の福音」を持っていくのである。相手といい関係が作れない時もある。その際は相手の平和を祈ることが大切である。私たちは何も心配することなく、ただ神にすべてを委ねて福音の宣教に励み、主イエスは私たちの救い主です!と証ししたい。

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「顔をどこに向けるのか」ルカ9:51-62 中村吉基

キリストに従いながら、生活の場においてイエス・キリストのみ言葉にどうすれば生きて行けるのか。今日の箇所でイエスはエルサレムで待ち受けている自分の最期をじっと見据えている。安全な地に留まらず険しい道を突き進むことが神のみ心であると悟り、自分の命だけを守ろうとするのではなく人々の救うことを望んだ。また弟子が彼らを歓迎しない人々を力でねじ伏せる提案をするといさめる。キリスト者は、力ではなく人を赦す心を持たねばならない。 「キリストの道」を歩む時には大きな決断が必要である。今日の箇所では、イエスに従う者がその前に父を葬ることすら許されないという厳しい話がある。この話は人間的な欲望から解放し、神の救いを得させるための道でもある。百年以上前に、大逆の冤罪で捕まった高木顕明という僧がいた。彼は極貧の門徒の中で暮らすうちに、みなともに生きる同じいのちであるという同朋和敬という考えに至る。これは現代を生きるキリスト者の我々にも通じる大切な教えである。聖書では「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」とある。油断してほんの少しの間でも主イエスから目をそらしてしまうと悪の力はつけ入る。私達はどこに顔を向けているかを問うて信仰生活を送っていきたい。

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「教会を信じる」ガラテヤ3:26-29 中村吉基

神は私達に使命を与えていらっしゃる、私達は神の世界の出演者である。ともすると自分の欠点ばかりに目がいくが、それは何の得にもならないし神への冒涜でもある。今日の聖書の箇所でパウロは、あなたがたは「キリスト・イエスに結ばれて神の子」であると書いている。つまり、神と結ばれて生きるものとなったという証である。またキリストを着ている者に差はないとも書く。民族も身分も性別も、そしてその属性にかかる差別や役割もないとしている。パトリック・チェンはそれをラディカル・ラブと呼んでいる。教会において、多様な人も受け入れる所であるはずが、排除や差別もある。キリストにおいて皆一つであることを原点として教会を作り上げていきたい。