「人の心に刻まれる契約」エレミヤ31:27-34 中村吉基

エレミヤ書31:27-34;ヘブライ人への手紙9:15-22

今、私たちの周囲を見渡せば、親が子を殺し、子が親を殺す、というような報道によく接するような毎日です。殺伐とした、私たちの心が痛む思いのする事件が多発しています。そのような中で、私たちには変わることのない愛を注いでくださる「親」がいます。この甘えていいのです。嘆いていいのです。その方の前では、私たちの心の思いをあらわにしていいのです。それが神です。親である神は私たちにいつも寄り添ってくださいます。

今日私たちに与えられたみ言葉には預言者エレミヤが出てきます。このエレミヤもまた、神に苦悩を激しく告白し、時にはなじり、また時には自分が神から召し出されたことを恨んだ人でありました。

預言者の使命は、神と人との間を執り成すことです。エレミヤはなぜ苦悩を激白したのでしょうか。それは民が、エレミヤがどんなに神のみ言葉を取り次いでも、聞き従おうとはせずに、ますます神に背を向ける方向へと進んで行きました。それは自分の取り次ぐ言葉が人々に受け入れられない、という単純な理由ではないのです。エレミヤは若くして預言者に召されました。エレミヤ書の1章には「わたしは若者にすぎませんから」と神の召しを辞退するエレミヤの姿が描かれています。この「若者」という言葉は原語(ナアル)では少年を指す言葉でもありますから、本当に年若くして、文字通り若僧と言っていいかもしれませんが、預言者として国の歩むべき方向を託されたのでした。そのエレミヤに対して、人は神童のようには見ませんでした。若さゆえに雄弁ではなかったかもしれません。しかし、このエレミヤを神は支え、用いて新たな方向へと民を導くのです。それが今日の箇所です。

エレミヤはひたすら神が民へと介入してくださることを待ち望みました。ますます民は闇の中に沈潜していくように見えたのです。エレミヤが民の要求を受け入れれば神に背を向けることにもなります。また神のみ言葉を民に伝えれば、民はエレミヤの言葉を糺すことこそが神に仕える道だと誤認しはじめるのです。その狭間に立ってエレミヤは自分の使命を受容していくのです。この預言者の姿に、私たちは主イエスの受難の姿を重ねて見ることができます。主イエスもまた十字架の道を受け入れ、ひたすら前へと進むのです。エレミヤにも主イエスにも、自らの道を進むことによって、人間を何としても救いへと導こうとする「愛」を感じることができます。

31節にこうあります。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」。エレミヤの語る「新しい契約」とは何でしょうか。イスラエルの民と神の関係は、出エジプトの出来事に遡ることができます。あのモーセに導かれた民は宗教的にも新しい出発をしたのです。それは「契約」の宗教でした。エレミヤは神と民との関係を夫妻の関係になぞらえて語ります(32節)。しかしイスラエルの民が、今置かれている状況は、この契約を破棄したのです。そのために再び契約を結び直さなくてはならなかったのです。そして(33節)再び神が与えてくださる契約は、これまでの契約のように石の板や書物に書き記されるものではなく、人の「胸」に授けられ、その「心」に記されると言うのです。

目に見えるものは、壊れます。神は造られては、壊される物の「はかなさ」をよくご存知でした。新しく授けられる契約は、人間の不義によって壊されることなく、不変のものであるのです。そして「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」とは、契約のもっとも基盤をなすものであり、言い換えれば「神の親宣言」です。ここに私たちは恒久的で、揺るぎのない神の一方的で大きな愛を感じることができるのです。

34節にこう記されています。「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる」。ここに「小さい者も大きい者も」とありますが、これは人の年齢を指して「子どもからおとなまで」と言っているのではありません。一人ひとりが大切にされながら、という意味です。

今、「格差社会」とよく言われます。そしてそのことが問題化していますが、神の世界では信じる者に「もれなく」救いがもたらされるのです。そこには貧富の差や、この世的な身分の差、学歴や性差など一切問われることはありません。

私たちは神の「子ども」なのです。
そして神の「民」とされるのです。
そして私たちは神を「親」と呼んでいいのです。

今日の箇所の言葉を引用すれば、神が私たちの神となってくださるのです(33節)。でも、今、この瞬間に神が私たちの神となったのではありません。ずっと以前から私たちの神だったのです。それは私たちのいのちが造られた時からです。“神が私たちの神となる”のは言い換えれば、神を畏れ敬う、私たちがやっと、そしてようやく神の愛に気がついた瞬間を指すのです(「主を畏れることは知恵の初め」箴言1:7)。

エレミヤの時代、国を滅ぼされてしまった民には、何を拠りどころにして、生きる指針を与えられればいいのか、ということに人々は苦しんだに違いありません。神のもたらす「新しい契約」はそうした求め、人びとの飢え渇きに応えています。これまでは神と民族全体が信仰の中心線でありましたが、これからは神と個人がそれぞれの関係性の中に生きることが許されているからです。

34節の続きにはこうあります。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。神と私たちとの間で契約が交わされる時、そこにはその契約を保つための律法が必要になってきます。律法は人間に対して神のみ心を現実のものとして表しています。しかし、人間はこの律法を心に深く受け入れ、実行していくことが困難です。神は決して人間に越えられないような壁はお与えになりません。ですから実行不可能な律法ではないはずなのです。イスラエルの人々が律法を実行していれば、国が滅ぶことなどはなかったでしょう。しかし、人間は弱さがあり、律法を授けられれば反抗心も生まれてきます。人間は良心を持ちながらも不義を行うのは、やはり罪の中に生まれたからです。この根本的な問題を乗り越えることなしには、契約が生きることはありませんし、私たちが神を親と呼び、神が私たちをその民としてくださる道は実現しないのです。

神が「再び彼らの罪に心を留めることはない」と仰せになるのは、文字通り「罪を記憶しない」ということです。過去の不義は問わない。それを帳消しにして、今、民が新しく造られた人間としてお認めになる、ということです。「新しい契約」とは、神と民の新しい関係、人間の新しい出発を意味するのです。この新しいスタートこそが神に背を向けていた人間が神の方へと向きを直し(悔い改め)、神と一人ひとりの人間の関係が築かれていくのです。そして過去の律法を超えることができるのです。

長い間イスラエルの人々は、律法こそが神のみ心を体現するものであると信じてきました。しかし彼らはその律法に背を向けました。国が滅ぶことによって律法を幻想のものと追いやってしまったのです。しかし今日の箇所にあるエレミヤを通しての「新しい契約」は民の一人ひとりの心を揺り動かし、感動させるばかりではなく、その人自身を動かす契機となったのです。

さて、今日の新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙9章15節にはこうあります。「キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」。エレミヤは新しい契約が与えられることを宣言しました。そしてこの新約のみ言葉は私たち人間がどのようにしてその契約が実現するかを示しています。エレミヤによってもたらされた神の新しい契約は、主イエス・キリストにおいて完成するのです。神が送ってくださったキリストは、今を生きる私たちにとっての「新しい契約」そのものなのです。私たちは主の教えに従い、主イエスを模範として生きる時、また救い主として、神から与えられた「新しい契約」の実現として主イエスを心に受け入れる時、祝福の人生を歩むことができるのです。いにしえの預言者エレミヤが指差したその指の先には、「新しい契約」の完成者である主イエスが居られるのです。

いよいよ教会の一年が終わり、来週の待降節からまた新しい一年の扉を開き、年を重ねようとしています。私たちは主イエスをお迎えする備えを始めます。エレミヤが指差した救い主、主イエスを通して、神を親とあがめ、私たち一人ひとりは神のものとされて、希望を持って共に歩んでいきたいと願うものです。