礼拝説教一覧

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「一人より二人」ルカ10:1-9 中村吉基

今日の箇所では12人の使徒に続き72人を派遣したとある。72とは全世界の民族の数とされる。派遣の際は「二人」ずつであった。お互いの協力、互いの思いやりを通して、言葉ではなく行いで神の愛を伝えられるし、旧約では証言するときには、一人ではなく二人の証言が有効なものだと考えられていた。宣教では、石を投げられるなど厳しい場合もある。イエスはとても案じ続けてらした。また何も持たず行けという少々酷な言葉もある。ただ「神の国の福音」を持っていくのである。相手といい関係が作れない時もある。その際は相手の平和を祈ることが大切である。私たちは何も心配することなく、ただ神にすべてを委ねて福音の宣教に励み、主イエスは私たちの救い主です!と証ししたい。

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「顔をどこに向けるのか」ルカ9:51-62 中村吉基

キリストに従いながら、生活の場においてイエス・キリストのみ言葉にどうすれば生きて行けるのか。今日の箇所でイエスはエルサレムで待ち受けている自分の最期をじっと見据えている。安全な地に留まらず険しい道を突き進むことが神のみ心であると悟り、自分の命だけを守ろうとするのではなく人々の救うことを望んだ。また弟子が彼らを歓迎しない人々を力でねじ伏せる提案をするといさめる。キリスト者は、力ではなく人を赦す心を持たねばならない。 「キリストの道」を歩む時には大きな決断が必要である。今日の箇所では、イエスに従う者がその前に父を葬ることすら許されないという厳しい話がある。この話は人間的な欲望から解放し、神の救いを得させるための道でもある。百年以上前に、大逆の冤罪で捕まった高木顕明という僧がいた。彼は極貧の門徒の中で暮らすうちに、みなともに生きる同じいのちであるという同朋和敬という考えに至る。これは現代を生きるキリスト者の我々にも通じる大切な教えである。聖書では「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」とある。油断してほんの少しの間でも主イエスから目をそらしてしまうと悪の力はつけ入る。私達はどこに顔を向けているかを問うて信仰生活を送っていきたい。

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「教会を信じる」ガラテヤ3:26-29 中村吉基

神は私達に使命を与えていらっしゃる、私達は神の世界の出演者である。ともすると自分の欠点ばかりに目がいくが、それは何の得にもならないし神への冒涜でもある。今日の聖書の箇所でパウロは、あなたがたは「キリスト・イエスに結ばれて神の子」であると書いている。つまり、神と結ばれて生きるものとなったという証である。またキリストを着ている者に差はないとも書く。民族も身分も性別も、そしてその属性にかかる差別や役割もないとしている。パトリック・チェンはそれをラディカル・ラブと呼んでいる。教会において、多様な人も受け入れる所であるはずが、排除や差別もある。キリストにおいて皆一つであることを原点として教会を作り上げていきたい。

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「希望」 ルカ14:15-24 広石望

ウクライナ侵攻、アメリカの銃乱射など陰鬱な影の中で真の希望に値する未来はあるかをイエスの大いなる晩餐の譬えを手がかりに考える。宴会の招待客全てに参加を断られた主人は町の通りからあらゆる人を招く。当時の常識ではありえないことである。 イエスの神の王国とはイザヤ書にもある山上での宴会であり、イエスが罪人と呼ばれる人々と交わったのもその先取りであり、そこには平和への希望があふれている。 それぞれの時代を生きた福音書の筆者たちは、イエスの譬えを用いて暴力の体験を理解しようとしたり、上昇志向の価値観を内側から変えようとしているのかもしれない。私達も世界の平和を祈っていきたい。

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「感動に突き動かされた教会」 使徒言行録2:1-12 中村吉基

ペンテコステの日に神が聖霊を通して何をなさったのか。 主イエスが復活された日の夕方、主の弟子たちに新しいいのちが授けられ50日もの間弟子たちの中にとどまった。しかし、この日はすぐさま弟子たちの内側から外側へと溢れ始めた。聖霊の力を「感」じて「動」きはじめたのである。普段使っていた言葉だけではなく、新しい言葉をもって神を賛美し始め、その様子は酔っているとあざける者もいたほどである。この出来事はいったい何を表しているのか。主イエスの死に失意の中にあった者たちが聖霊の力を受けて外に出て行き、同じように失意の人生を送ってきた人々に「神の偉大な業」を告げ知らせる者へと変えられた。それが教会の歴史が始まりなのである。

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「主の証し人として」ルカ24:44-53 中村吉基

十字架から復活なさったイエスの昇天である。イエスの死に落ち込み、復活を信じられない弟子達とともに食事をとられ、弟子たちを納得させ喜ばせた。その後弟子たちは変わり(使徒言行録に詳しい)、たった11人の弟子は証し人となって仲間内だけではなくすべての人に伝え、2千年後の遠い国の私たちにも届けられている。イエスとつながっている私たちは間接的にであっている、つながっているものである。イエスは私たちも遣わそうとしてらっしゃるが、私たちに何ができるであろうか。人とのかかわりの中で他人の立場にたつこと、祈ること、そして礼拝でイエスに直接出会うことである。こうして私たちも「あなたがたはこれらのことの証人となる」とキリストに祝福をされ、この世での生活に派遣されていくのである。

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「まことのぶどうの木に繋がって生きる」ヨハネ15:1-10 槙和彦

ヨハネによる福音書では直接弟子たちに語られたぶどうの木の譬え、イエスがぶどうの木で枝が弟子たち、手入れをする農夫が神である。2千年後を生きる我々も枝といっていいだろう。イエスは枝同士の関係については言及されていないが、枝同士の競争が起こるは自然であろう。しかし同じぶどうの木によって生きる対等な者同士であれば、敵を愛しなさいという難しい教えも希望がもらえるのではないだろうか。

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「イエスのように愛そう」ヨハネ13:31-35 中村吉基

イエスの公生活は3年と長くないが、その中で伝えたかったことのうちの一つが「新しい掟」として「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というものである。 愛とは相手がいないと成り立たない。双方向の愛がキリストの教える新しい掟である。 普段の生活にいっぱいで愛することは難しいかもしれない。しかし普段関わっている人、すれ違う人もまた神に命を与えられた存在として大切に思いやることが愛することである。私たちは洗礼によって主イエスに結ばれた。イエスの弟子としての証しは、私たち一人ひとりの生き方によってわかる。イエスの教えにかなった生き方をしていなければ真実ではない。イエス・キリストは愛し合う人びとの中に、愛に満ちた共同体に共に生き続けておられる。

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「あなたは誰ですか?」ヨハネ10:27-30 中村吉基

本当にクリスチャンなのか?と問われたとき、それが自分の弱さや欠点を指摘であれば気にする必要はない。しかし主イエスから離れていってるのではないか?という意味であれば危険である。主は私たちの羊飼いという信頼があれば安心して永遠の命を与えると主は言われるが、羊飼いなど不要という傲慢さに気をつけなければならない。私たちは神の子どもである。

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「たましいの食事」ヨハネ21:1-14 中村吉基

今日は、イエスが復活後魚とパンで弟子たちをもてなしてくださる箇所である。うらやましい場面であるが、実はイエス様は常に私たちと共にいてくださっている。マザーテレサはミサは霊的な糧であると言った。アメリカで歌われてる賛美歌Part of the Familyで歌われてるように、神の家族として、主イエスの愛に満ちた「たましいの食事」を提供できる教会でありたいものである。