「朽ちないもの」コリントI15:30-53 廣石望

創世記2:4後半-7;コリントの信徒への手紙I 15:30-53

I

 この教会は1997年、上原教会とみくに伝道所という2つの教会が合同して生まれました。そのとき以来、またそれに先立って召された信仰の仲間たち、また教会に縁の深かった方々のお名前が、本日の召天者記念礼拝では、ご遺族の方々の前で読み上げられます。
 私はみくに伝道所の出身なので、合同以前の上原教会の方々とは、個人的には面識がありませんでした。しかしご遺族の方々から、折にふれて故人のお話しを伺うと、その方の魂の手触りのようなものが感じられて嬉しいです。多磨霊園の共同墓地で納骨式を行う度に、「わたしも来るね」とこっそり声をかけます。
 それでも私たちにとって、面識のない人たちの生と死を身近に感じることは、必ずしも容易でありません。今年5月にWHOが公表した、世界中のコロナウイルスによる死者数の総計は、推計で約1500万人に上ります。この間私たちは、自分が生き残るための用心はいっぱいしましたが、失われた死者たちを悼むことがとても少なかったと感じます。そして今は、「あぁ、よかった。元の生活に戻ろう!」ですませようとしているように。2022年2月に始まったウクライナでの戦争や今年10月以降のガザ戦争でも、非武装の一般市民に対する残虐行為の報道に接して、私たちは衝撃を受けます。しかし、そのような方々の生と死に本当に共感できているかというと、とても心もとないです。しかも私たちの倫理観は、しばしば情報戦といわれるものの餌食です。
 何れにせよ社会の中で対立や孤立が深まると、人の心のつながりは薄れ、いわゆるセルフネグレクトを含めて他者の命との交流や共感は失われ、その結果、死者たちは忘れ去られてゆきます。そうした分断をもたらすのは、おそらく感染症の流行や戦争だけではありません。
 これに対してキリスト教会は、復活のキリストを頭とする「死ねる者たち」と「生ける者たち」の両方から成る共同体です。その中核的な倫理は相互の自己犠牲的な愛、すなわち共苦共生です。本日のテクストで使徒パウロは、イエス・キリストの復活のできごとが、人間の運命にとってもつ意味について述べます。とても難しい箇所ですが、ごいっしょに読んでみましょう。

II

 「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し」(42節)とあります。地上的な実存と終末論的なそれを対比させる発言です。原文を直訳すると「腐敗のうちに種蒔かれ、不朽のうちに起こされる」。2つの受動態は、人間存在が神によって設定されることを示唆します。この世に生を受けるのも、世界の終わりに再び起こされるのも、等しく神が人間に対してなす行為です。
 たしかに私たちは、自分で望んで生まれてきたわけではありません。気づいたらもう生まれていて、家族その他から守られて育ちました。周囲の人びとから話しかけられなかったら、言葉を話すこともなかったでしょう。私の命の始まりを、私は自分で決めていません。
死についてはどうでしょうか。安楽死の選択はともかく、病気や事故、災害や戦争がもたらす死は、究極的には私のコントロールの外から私の身に降りかかります。先年、ある著名なスイス人の新約学者が亡くなったとき、近しかった人から「彼はもう生きたくなかった」と聞いて驚きました。生前は、とてもエネルギッシュな方だったからです。でも心臓発作の後、急激に弱ってしまったのだそうです。私の死もまた、私の手のうちにはありません

III

 では、「朽ちないものに復活し(/不朽のうちに起こされ)」とは、どういうことでしょうか?――本来ならば〈種蒔かれ〉とペアになるのは、死を意味する〈刈り取られ〉でしょう。それが、ここでは〈起こされ〉と言われます。「起こす」は旧約聖書でも用いられる復活言語であり、「目覚めさせる」という意味でもあります。死を「眠り」と表象する伝統を受けているのでしょう。その永遠の眠りである死から、神は私たちを目覚めさせる。
「自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(44節)。――「体」という日本語は肉体を連想させ、「霊の体」と言われても何のことか分かりません。原語は「魂的な身体」と「霊的な身体」です。ここでいう「体/身体」とは、肉体という意味ではなく、〈私・あなた・あの人〉それぞれの人格的な同一性のことと思われます。つまり「魂」をもつ私とは、神から息を吹き入れられて、生きる「魂」となったアダムです。その体は死んでいったん朽ち果てる一方で、神は死の彼方の「霊」の領域で、他ならぬ「私」を新たに目覚めさせるというのです。
 いったい何を根拠に、こんなとんでもないことを言うのでしょうか?――「最後のアダム(キリスト)は命を与える霊となった」(45節)という発言が、そのヒントです。処刑されて死没したイエスについて、生前の弟子たちを中心に、彼が「生ける者」として現れたという証言がたくさん残されています。この一種の幻視体験から、神は命を創るというユダヤ教の信仰や、死者たちは起こされて「神の王国」の宴に参加するというイエスの教えなどを背景に、「神はイエスを死者たちの中から起こした(/目覚めさせた)」という信仰が生まれました。最古のキリスト告白です。そして聖霊体験と呼ばれるものが、この確信を支えました。「命を与える」と訳されたギリシア語は「命づくりする」であり、創世記の人間創造の物語を受けています。しかもそれは、かつて神が作ったこの世の命を超える新しい命です。キリストは、死ぬという点では私たちと同じである一方で、この世の命の限界である死を通り抜け、まったく新しい神の命の領域に到達しました。それゆえに、新しい命を創った神の働きの証言者、いやその働きをさす「霊」そのものになったのです。
 そして、そのようなキリストの運命こそが、パウロによれば、すべての人間の運命にとってモデルないし雛形です。「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなる」(49節)。ならば人はアダムであるのと同様に、最後のアダムであるキリストの身に生じたように、地上的な限界を超えた存在になるでしょう。

IV

 近代以降の私たちは、地上的なもの、操作可能なものに自らを限定することで、科学や経済の分野で大きな発展を成し遂げました。しかしその一方で、「神」とか「天」とか呼ばれる、超越的なものに対する畏怖や憧憬の念を広範囲にわたって失いました。今の私たちの行動原理は、少し意地悪く言うと「できるだけ楽して得をしたい」とか「自分の主張で他者を圧倒したい」、あるいは少しかわいらしく言うと「人気者になりたい」などです。そんな私たちに他者との命のつながり、ましてや失われた命との交流は、果たしてなお可能なのでしょうか?
これに対して、パウロがもっているイメージは「変身」です。私たち皆はただ眠るのでなく、「皆が変えられる」(51節――「今とは異なる状態に」は原文にない補い)。「死者は復活して(/起こされて)朽ちない者とされ、私たちは変えられる」(52節)。死者たちが「目覚めさせられ」、「命づくりされ」、「天に属するその人(キリスト)の似姿にもなる」(49節)という発言の含意には、私たちと死者たちの交流が新しく回復されることが含まれます。
そのとき私たちは、神の裁きを介して新しく創られることにより、自らの利益と優位を求めて傷つけ・傷つけられる関係から、ついに解放されます。私たちの行為が、真実において何であったかが明らかにされるからです。仮にかつての死者が生前に私たちに悪いことをした場合も、その罪は赦される。私たち自身もまた赦されることなしに、目覚めさせられた死者たちに新しくまみゆることはできないでしょう。
ならば、「朽ちないもの」とは神による和解の達成であり、それを信じる私たちの死者たちへの連帯、またこの世で傷つけられている小さな命のための祈りであると思います。