「主が来られる」イザヤ52:1-10 中村吉基

イザヤ書52:1-10;ヨハネによる福音書7:25-31

今日から待降節(アドヴェント)に入ります。教会は新年を迎えました。4回の日曜日を通して、イエス・キリストの降誕を記念するクリスマスの日を待ち望み、また終末の時、この地上に再び来られるキリストを待ち望む「期節」です。アドヴェント・クランツの4本のろうそくを毎週1本ずつ点していきます。クリスマスが一番近い日曜日に4本目が点ります。ろうそくの色は紫(紺)です。教会で紫を使う期節はイースターの前のレントの40日もありますが、親しくしている牧師が学生時代に、先生から「紫の期間は、ふんどしを締め直す時だ」と言われたというのです。とても良い言葉であると思いました。私たちは、ふんどしこそは締め直せませんが(笑)、クリスマスだからといって浮かれ気分で過ごすのではなく、気が緩まないようにしっかりと「心のふんどし」を締め直して、この時を過ごしたいものです。紫の色は昔の王族や貴族の色でした。この色は王であるキリストの高貴な色を表すと共に「悔い改め」の色でもあります。私たちの日々の行いを省みながら、私たちの弱さや過ちをゆるされてクリスマスの日を迎えるための備えの期間が待降節です。

1本1本のろうそくにも意味があります。
最初のろうそくは「預言のろうそく」と呼ばれます。今朝の礼拝では預言者イザヤの言葉に聴きました。これは「希望」を表しています。
キリストは旧約聖書に記されている預言の成就としてお生まれになりました。私たちにとっての「希望」です。ですから今日は希望の日曜日です。

2本目のろうそくは「天使のろうそく」と呼ばれています。これは「平和」を表しています。キリストのご降誕を告げたのは天使でした。天使は、「天に栄光、地には平和」と賛美しました。

3本目のろうそくは「羊飼いのろうそく」です。これは「喜び」を表しています。
キリストのお誕生が最初に告げられたのは、当時貧しい暮らしをしていた羊飼いたちに対してです。羊飼いたちはベツレヘムで飼い葉桶に寝かされている幼子イエスを見出し、喜びに満ちあふれました。ちなみに待降節の第3の主日だけは、ばら色のろうそくを点します。クリスマスが近づいてきてほのかな喜びを示す「ばら色の日曜日」を過ごすのです。

 4本目のろうそくは「ベツレヘムのろうそく」といわれています。これは「愛」を示しています。神の愛が現実のものとなったのは、キリストご自身です。主イエスが生まれた場所はユダヤのベツレヘム(現在はパレスチナ)です。

「希望」「平和「喜び」「愛」は、私たちと同じ人間の姿となってきてくださったイエス・キリストからもたらされます。祈りと共にこの期節を過ごしたいと思います。
そして今年はクリスマス・イブが日曜日になります。愛の日曜日、待降節第4主日の朝、私たちの教会ではクリスマス礼拝をお捧げします。この日に真ん中にある白いろうそく(キリストのろうそく)に火を灯します。白い色は幼子イエスの純潔を表しています。ユダヤの暦では日没から一日が始まりです。12月24日の日没はもう25日に入っています。そこで世界の諸教会では、24日の夜(に朝にかけて)にクリスマスの礼拝をお捧げします。

今日はまたキリスト教会の新年を迎えています。先ほどお話ししましたようにこの最初の礼拝に届けられた聖書の言葉は預言者イザヤの書からです。

この箇所は歌が続いていきます。「第3の僕(しもべ)の詩」(50:4-9)と「第4の僕の詩」(52:13-53:12 「苦難の僕の歌」と呼ばれる)という2つの詩の間に、また別の詩が記されています。51章の最初からこの52章12節まで続く詩です。今日私たちはその終わりの部分に聴きました。

「奮い立て、奮い立て」と勇ましく、躍動的な言葉から始まります。
新しい聖書協会共同訳ではこのヘブライ語「ッウーリ」を「目覚めよ」と訳します。いずれにしてもイザヤ書の後半では繰り返し使われる言葉です。
解放される日は近い。力を失くしてうずくまっている女性(シオン)になぞらえます。身体を起こして立ち上がりなさい。ここから主が造られた道を歩いていきなさい、というようにです。

この箇所の直前の51:17以下には「憤りの杯」との見出しが付けられていますが、文字通り大国バビロニアに捕囚され、苦難に次ぐ苦難を味わわせられていた
イスラエルの人々でした。この51章の19節には「破壊と破滅、飢饉と剣」という言葉が出てきますが、まさに誰も復興させることのできない壊滅的な状況にありました。

先ほど今日は「希望」の日曜日だと言いました。でも「希望」のないところから始まっていくこの物語です。本当に希望がないのでしょうか。絶望の中にあることは疑いの余地がありません。

預言者イザヤは言います。1節をご覧ください。
「奮い立て、奮い立て 力をまとえ、シオンよ 輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ」。続く2節では「立ち上がって、塵(ちり)を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ」。

これまでとはガラッと状況が変わるかのような状況の転換がなされるというのです。「力をまとえ」とは戦いに挑め、蜂起しなさいと言っているのではない。希望も何にもない、無気力状態に陥っている人たちに神が救いの手を伸ばしてくださるのです。人々はその御手を頼りによりすがればいいのです。

解放が間も無くそこに迫っている。人々を見捨てることも、見放すこともない神がそこにおられます。「奮い立て」と言われても、「目覚めよ」と言われてもどうしても立ち上がれない人たちでした。けれども主は言葉と業をもって人々を励まし続け、そこから引き上げようとされるのです。

3節にこうあります。
「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらず買い戻される」。
何の価値も無い かつて罪を犯し続け、捕囚に遭った民は無価値だというのです。しかし、神はそんな人々を「銀によらずに買い戻される」すなわちただ神の一方的な恵みによって行われるのだというのです。「神はあなたがたを救い出される」と約束されるのです。この人々の罪のゆえに、敵にこれらの人々を売り渡したのも神の業でした。しかしそれを「銀によらず」ただで買い戻そう(あがない)とされるのも、また神の業でありました。

4−6節までのところで、これまでイスラエルはエジプトに、アッシリアに抑圧され、そして今、バビロニアに一人一人は骨抜きになって、廃人になるようにまで抑圧され続けてきた歴史をうかがわせるのです。しかし、神はこう言われます。「それゆえ、その日にはわたしが神であることを、『見よ、ここにいる』ということを知るようになる」(6節)。

神は人々が死んだのも同然のような無気力で無価値なものとされていくことに耐えられなかったのです。自らの名を人々に表すというのです。

いかに美しいことか 
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
救いを告げ、
神は王となられた、と
シオンに向かって呼ばわる。

ヘンデルの『メサイア』にこのイザヤの言葉を歌った美しい歌があるのをご存知の方もあるでしょう。昨年のクリスマス讃美礼拝でも歌われました。本当に麗しい、大きな光が差し込んだ「希望」が到来する。そのことを「主の僕」を通して実現するのだとイザヤは言いました。神が王となり、シオンが解放される日が来るのです。

ある聖書学者はこう言っています。
「(伝令の足は)山々を行き巡ってきたのだから土にまみれているはずである。しかしそれは《美しい》と言われる。なぜなら旧約聖書において美とは、動きの中で示されるものだからである」(大島力)

神は動かれるのです。人々のために動かれるのです。いにしえのイスラエルの民にも、現代を生きている私たちにも神は動かれるのです。その神の一心な思い、それがキリストとなって私たちの間に実現したのです。

8節以下をごらんください。希望が到来します。神が「あなた(がた)を救う」と宣言されました。人々は「歓声をあげ、共に喜び歌う」(9節)のでした。たちまち希望から平和が生みだされ、人々の間に喜びが満ちるのです。すべて神の愛から出るものです。この待降節、毎週一本ずつろうそくを灯しながら、私たちは「希望」から「平和」そして「喜び」から神の「愛」を知る時にしましょう。

10節で告げられます。

主は聖なる御腕の力を
  国々の民の目にあらわにされた。
地の果てまで、すべての人が
  わたしたちの神の救いを仰ぐ

預言者は「すべての人が神の救いを仰ぐ」と伝えました。
「すべての人」です。ここには皆さん一人一人も含まれています。
今本当に希望を失っている人が、この中にも、そして世界のあらゆるところにいることでしょう。しかしそんな絶望の中に、無気力になっている皆さんに神は「奮い立て、奮い立て」と言葉をかけてくださるのです。それだけではありません。その深みから救い出してくださるのが神の力です。

私たちの教会もまたこの神の救いを伝え続ける共同体でありたいと思います。靴の裏に土がつくことなど気にせずにひたすらに「良い知らせ(福音)」を伝え続ける群れでありたいと願います。

さあ、主が来られます。希望から平和、喜びから愛をもって主をお迎えしたいと思います。