アドヴェント一覧

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「愛が生まれた日」ヨハネの手紙Ⅰ4:9-18 中村吉基

イエスがお生まれになった2000年前、イスラエル・パレスティナでは激しい争いが起きた。いつまで続くのか、人はなぜ境界線を作るのが好きなのだろうか。12/10の朝日新聞にはベツレヘムのがれきの中に赤ん坊が待降節の飾りとして飾られている。今日の箇所では「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」と宣言されている。この時代、「キリストなどいなかった」「福音書の物語はすべて作り話」とするグループがあった。ヨハネの手紙はそのような人々を意識して書かれた手紙である。イエスは人間としてこの世界に来てくださり、私たちがイエスをお迎えする。「神は愛です」ということが実現していれば、神に愛されている実感し、隣人を愛する者になっているはずである。イエスは境界線を壊した。罪人とされる人々と食事を供にし、不浄の人々にイエスから触れた。これはすべて神が分身を用いて人間の作った愚かな境界線を打ち壊したことにほかならない。私たちの毎日は恐れることばかりだが、神の愛には恐れがない、と聖書は言う。クリスマスとはこの神の愛が生まれた日なのである。

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「主が来られる」イザヤ52:1-10 中村吉基

今日から待降節、クランツのろうそくの1本目に火がともされた。クランツのろうそくにはそれぞれ意味があり、今日は「預言のろうそく」、「希望」を表している。キリストは旧約聖書に記されている預言の成就としてお生まれになった。2本目以降も「平和「喜び」「愛」を表しており、人間の姿となってきてくださったイエス・キリストからもたらされる。しかし今日の箇所のころは、希望というより絶望の中で大国バビロニアに捕囚され苦難の時期である。しかし解放が迫っている、神は人を見捨てることはない。ヘンデルの歌にもなったこの箇所は、神が人々のために動かれる希望の到来である。これは古のイスラエルだけではなく現代の私たち一人一人の無気力や絶望の深みから救い出してくださる。私たちは、その神の救いを伝え続ける共同体でありたい。

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「インマヌエル」マタイ1:18-25 中村吉基

引き続きマタイから、今週はヨセフである。いいなずけ(12,3歳頃に約束される)であったがマリアの懐妊のを知り「戸惑い」「考え込」んでしまう。なぜなら当時の律法に反してしまうからである。しかし夢で天使の言葉をききヨセフはマリアを妻として迎える。これは神のご計画であり、普段から神への信頼を篤いマリアとヨセフも選ばれたのである。このヨセフの決断によって、私たちは主イエスをインマヌエルと呼ぶことができる。夢の言葉は、今の私たちにも語られている。主イエスはいつも私たちと共にいてくださる。争いや貧困などで今よりも一人の子どもの小さないのちが誕生するのにしてもさまざまな困難があった。その中でヨセフとマリアに喜んで受け入れられた命を心に刻み感謝と喜びをもって救い主イエスをお迎えしよう。

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「喜び、ひろげよう」マタイ11:2-12 中村吉基

アドヴェント3週目喜びの主日と呼ばれる日を迎え、先週に引き続き洗礼者ヨハネである。既にヘロデ王によって牢にあったヨハネはイエスの活躍を耳にしすぐに弟子を送り、彼が救い主かどうかを確かめる。想像していた強い指導者ではなかったからである。遣わされた弟子に対しイエスはイザヤ書をひいてお答えになった。その中にある「貧しい人」とはたんに経済的に困窮しているだけではない。障害など様々な理由から自由を失っている、しかし神様は救ってくださるという希望を見失わない人である。人生の困難や世界で起こる戦闘などで不安もあるが、ヨハネが「来るべきお方」と呼んだ救い主が友となってくださっている。希望を失なってはならない。ヨハネは自分の使命をわきまえて最後まで忠実に果たした。イエスが「偉大な者」と言った所以である。ヨハネに倣って神の愛を周りに伝えていくことが私達のつとめである。クリスマスを前に一人でも多くの人に神の愛を伝えよう。

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「神に心を向け直す」マタイ3:1-12 中村吉基

今日と来週の礼拝では洗礼者ヨハネの記事が朗読されるが、ヨハネに注目するためではなくヨハネが指差した救い主を見るためである。この箇所はルカ福音書にもあるが、マタイの方が迫ってくるものがある。まず命令形で「悔い改めよ。天の国は近づいた」とある。悔い改めというのは、聖書では心も体も「神に心を向け直す」ということである。そこには人間は神に背を向けて生きてしまうという前提がある。ヨハネは荒れ野で声をきき、悔い改めを説いた。イエスも伝道開始時に同様のことを言っている。神と私たちとが出会うことを導いてくださってるのである。神を感じるのは願いが実現した時ではなく闇の中や荒れ野のような状況である。私達が背を向けてもヨハネが示したように神の使者はまもなくおいでになる。ただ何となしにクリスマスを迎えるのではなく、自分自身の心が本当に神に向かっているのか糾明しながら待降節の一日一日を歩みたい。

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「その日、その時を知る神」マタイ24:36-44 中村吉基

待降節にはいった今日の箇所は直接クリスマスではなく終末の時(その日、その時)の再臨についての教えである。イエスが語っているのはノアの話、平和な時代に人々は自分の生活ばかり優先し放縦な生活を送っていたがノアだけは神の御心を受け止めた。そしてあの洪水である。続く40節での譬えは人の子の到来の日のこと。いつ来るかは誰にもわからないが「思いがけない時に来る」と書かれている。そのために目を覚まし、わからないことをわきまえて、用意していなければならない。今日の旧約の箇所のイザヤは「終わりの日に」と救いの日の訪れを表現している。もはや戦うことを学ばないとイザヤは宣言している。待降節は、クリスマスにむけて信仰を省みるとき。地上に平和がもたらすために神が願い、イエスが来られた。この世界が平和になるように待ち望み平和を作り出す人になることができるように祈りたい

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「わたしを思い出してください」ルカ23:33-43 中村吉基

待降節前の今日は伝統的に「王であるキリスト」にちなんだ聖書箇所が読まれる。おとぎ話や海外の教会にある像などで「王」の印象はあるかもしれないが、今日のルカの福音に描かれた主イエスの言動から本当の王を聴いていきたい。十字架の主イエスを最初にあざ笑うのは議員たち、兵士たちも同様であり、ついには十字架につけられていた二人の犯罪人のひとりもののしりはじめる。頭にはユダヤの王と書き、彼らの言い分は「本当の救い主なら自分を救ってみろ」と言い、酸いぶどう酒を飲ませて侮辱する。彼らはイエスが本当の救い主であるはずがないと思っている。彼らは、私達もよくやってしまうが、神を試している。神はやろうと思えば、力あるヒーローのようにこの状況を変えることができた。しかしそのような「力で屈服させる」のは神のやり方でもイエスの生き方でもない。神は決して私たちを操ろうとはされず、人間に対して心に愛をもって迫る。イエスの生涯はそのためのものであったともいえる。主イエスは迫り来る死を前に悲しむ女性たちを慰め、十字架につける兵士達のゆるしを願い、自分の罪を悔いているもう一人の犯罪人には救われることを宣言された。そのような主イエスの姿に私たちは愛を見ることができる。「自分のために、自分のことだけに」固執するのではなく、主イエスと一致して歩んでいく人生になることを神は望んでおられる。ルカの福音書だけに記されているこの罪人の言葉「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」に対し、イエスは神の国の王として約束した。この罪人の祈りを私達の祈りとしたい。そして自ら十字架への道を歩んだ主イエスこそが私たちをあらゆる悪の支配から解放し神の国へと招いてくださることを信じていきたい。