中村吉基一覧

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「恐れるな。語り続けよ」使徒18:1-11 中村吉基

アテネで伝道がうまくいかなかったパウロはコリントにいたユダヤ人への宣教もうまくいかない。イエスをメシアと認めないユダヤ人に口汚く罵られ服の塵を振り払って異邦人へ伝道することを決める。異邦人の人々に福音は受け入れられたが同胞のユダヤ人とは膠着状態にあったパウロは苦しかったはずである。そんな時神はパウロに「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」と語りかける。これは神が「共にいてくださる」ということである。今日は平和聖日、第2次大戦中キリスト教会は国策によって合同したが、厳しい弾圧にあった教会もあり、逮捕・検挙された牧師もたくさんいた。教団には、そんな彼らを見捨てた歴史がある。戦後鈴木正久によって、正しい判断ではなかったという戦責告白を公にした。沈黙は罪である。私たちはペトロやパウロの時代に始まって連綿と「平和の福音」を告げ知らせてきた教会なのである。

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「福音を告げ知らせながら」使徒8:1-8 中村吉基

今日の箇所にはサウロとフィリポという2人がでてくる。サウロはキリスト者を迫害しているユダヤ教の指導者、フィリポは選ばれた7人の執事のうちのひとりである。サウロは後のパウロ、彼の話は、誰でもする失敗、または悪事をしても自分のもとに悔い改めて戻ってきた者に力を与えるという神の力を証しである。一方サマリアでは迫害から命からがら逃げたフィリポが困難な状況下で生きていたサマリア人に福音宣教をしていた。ユダヤ人から忌み嫌われていた地で貧しくされ福音の教えを必要としている人びとがたくさんいたのである。ステファノの死を乗り越えて、自身も迫害されながら、福音を宣べ伝える事ができたのか?それは信仰の力であり、現代社会を生きているすべてのキリスト者が目指すべき姿である。社会の片隅で心が擦り切れそうになっている人たちに寄り添いなさいという神の促しなのである。

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「最期の言葉」使徒7:54-60 中村吉基

ペンテコステの日に聖霊を受けた主イエスの弟子たちは熱心に福音を人びとに伝えていき、主イエスを信じる人びとが爆発的に増えていった。しかし、教会の中で、背景が違うもの同士のいさかいや分配をめぐり人間的な争いごとが起き始める。そこで使徒たちは「“霊〔聖霊〕”と知恵に満ちた評判の良い人」を選ぶように言う。その中の一人がステファノである。彼は非常に評判のいい人物だったようだが、逮捕されて最高法院での裁判にかけられてしまう。キリスト者たちに敵対している人がステファノとの議論し歯がたたず恨みに思い、偽りの証人に証言をさせるからである。今日の箇所の前半はステファノの弁明である。内容は主イエスを思わせるものであるが、聞いていた人々は激しく怒り、石打ちで処刑するという判決を下す。そして人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた、一方ステファノは「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んで眠りについた。主イエスだけを、主イエスの愛のみを見上げたステファノの強く、雄々しい最期である。この石打ちの現場に「サウロという若者」の名前が登場する。

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「キリストの名によって」使徒3:1-10 中村吉基

エルサレムの神殿の「美しい門」で物乞いをしていた生まれながらに「足の不自由な男」は、神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていた。決して門の中には入れなかった。そこを通ったペトロとヨハネは「金や銀はないが」と前置きし、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言うと、その男は歩き回り、神を賛美し、一緒に境内に入り神を賛美した。施されたものが金と銀であればその男の当面は潤ったかもしれないがまた尽きれば元通りである。しかし使徒たちは、「イエス・キリストの名によって」永遠の救いを約束した。今日の箇所が教えていることは、金と銀ができることには限界がある、それには頼らずイエス・キリストを信じ、模範として生きることが大切である。私たちがすべきことは「キリストの名」を人びとに与えることが、教会がなすべきことである。

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「心を抉られる経験」使徒2:37-42 中村吉基

五旬祭の日、主イエスが甦った喜びを伝え、十字架のイエスを神は主としメシアというペテロの説教をきいた人々「深く心を抉られ」(荒井訳)と聖書にはある。聞いた人々のどうしたらいいかを質問に対しペテロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と答える。これに応えて洗礼を受けたものはこの日だけで3千人あったと記されている。福音のメッセージを聴いて、「深く心が抉られる」経験をしたことがあるだろうか?どのようにして福音の言葉が届けられたのかを思い起こし、聖霊の賜物をもって福音を伝えよう。聖霊は必ず私たちを支え、それを助けてくれるのだ。

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「心を合わせて祈る」使徒1:12-14 中村吉基

復活された主イエスは、聖霊による洗礼を授けられ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となると語られたと語った後、天に昇られた。場所は通称「オリーブ山」、ベタニアやゲツセマネの園がある場所である。今日の箇所では、聖霊降臨の現場となる部屋、つまり泊まっていた家の上の部屋(the upper room)で使徒たち、婦人たち(おそらくルカ8:2,3に記されているような女性たち)や母マリア、兄弟たちが心を合わせて祈り聖霊降臨を導いた、危機的状況を乗り越えたのである。「嵐の中の教会 ヒトラーと戦った教会の物語」という本にはドイツの小さい村の教会で、ヒトラーの影響は強まる中で、「聖餐式によって生まれる共同体は、国民共同体よりもはるかに深い」といった説教をした牧師と、それを「アーメン」と信徒が受け入れ、一つになった瞬間が書かれている。我々はヒトラーの時代のようには緊張した時代ではないかもしれないが、聖餐はいつでも厳粛な出来事、パンとぶどう酒の形をした主イエスが来てくださり、私たちに入って一体となってくださることである。かつて日本が戦争に突き進んでいた時のようにイエスを格下げすることのないように、私たちは心を一つにして祈るところにのみ、聖霊が与えられることを信じたい

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「教会は〝ことば〟から始まった」使徒2:1-11 中村吉基

ペンテコステは、失望して閉じこもっていた人たちが、神の力を受けて外に出て行き、同じように悲しみや苦しみの人生を送ってきた人々に「神の偉大な業」を告げ知らせる者へと変えられていった出来事と読み取ることができる。教会の歴史の始まりである。教会は建物ではなく組織でもない。当初の教会はそれぞれの賜物を与えられた人をイエスが召し集め聖霊が接着剤の役目を果たしているのであろう。多様な言葉で話し始めたペンテコステは一致した教会の始まりには思えないかもしれないが、全て神のお創りになったものである。神はこの世界をおつくりになったのもことばによるものであった。今日の旧約はバベルの塔であるが、ここで通じなくなったものがペンテコステで再びつながったのである。この出来事が我々の教会でも実現しているのことである。我々がひとりひとり違っていることを喜び、それぞれが聖霊をお迎えして、この信仰の共同体を、聖霊の力によって前進させていただこう。

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「イエスの驚き」マタイ8:5-13 中村吉基

自分の予想をはるかに超えたところに人は驚くことが多いが、今日の箇所でイエスは百人隊長に驚いている。何に驚いたのだろうか?1.5〜9節でみられるように百人隊長がイエスの権威、すなわち神のひとり子であることを信じているところ、2.百人隊長が異邦人であること。当時のユダヤ人は外国人は本物の神を知らない穢れた存在と思っていたのである。3.彼がローマ帝国の百人隊長という権威ある人物であったことである。百人隊長とは駐留していたローマ帝国軍の1つのユニットの指揮者のことで、そのような人物がイエスにお願いにきたこと。4.その部下に対する愛。当時の歩兵は百人隊長にとってみれば道具のように扱われていたにも関わらず、まるで99匹をおいても、迷ってしまった1匹を探しだすという神の視線を感じさせる行動。これにイエスは驚いているのである。これはフィリピの信徒への手紙2章6〜8節の神でありながら、それを捨てて、仕えられる者から仕える者へと変わられたキリストを彷彿とさせる。私たちが主イエスを驚かせるのはどんな時であろうか?彼がお示しになったすべてを人間に与える心、命までも差し出された十字架の心が、私たちの心と一致するとき、私たちは主イエスに驚かれるような者に変えられて行くのである。

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「あなたがたを友と呼ぶ」ヨハネ15:12-17 中村吉基

今日の箇所は、最後の晩餐の際に弟子たちに話された「告別説教」と呼ばれているメッセージである。中で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とある。それは弟子のことだけではなく私たちのこともである。キリスト教徒の迫害の先頭に立ってパウロが復活の主に出会って回心し大伝道者となり、教会をたて各地に長い手紙を書いたのも、全てパウロという人が主イエスの「友」とされた、ということに起因している。私たちは(弟子たちも)「自分が主イエスを選んだ」と思いがちである。しかし今日の箇所には「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」ともある。信仰とは、神や主イエスを信じることも、また教会につながっていることも、すべて神の選びによるのだと信じられるどうかにかかっている。また「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」ともある。」と続く。この教えが実現するときに、復活された主イエスは今この時も私たちの中で生き続けてくださる。今日の箇所の直前の11節で「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜が満たされるためである」とあるが、これが主イエスの言いたかったことの集約ではないだろうか?いつも喜んで、その喜びがいつも満ち満ちているために、神は私たちを選び、そして友と呼んでくださる。このお招きに応えて、喜んで主をお迎えしよう。

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「復活の証人たち」 コリントI 15:1-12 中村吉基

復活の信仰は、主イエスの弟子たちが作り上げた物語であろうとする説明がかなり昔から存在している。十字架は弟子たちに大層な衝撃だったので、弟子たちの“心の中で”復活したという説である。しかしパウロの説教である今日の箇所を読むと、矛盾する点がいくつかある。第一に、生前のイエスに会ったことのない、しかも当時のキリスト者を迫害していたパウロの心に主イエスが復活するような経験はしていないと思われるのである。第二に、パウロは福音が伝えられることを「キリストは○○に現れた」と語っていることである。5節以降に「現れた」という言葉が6回繰り返される。主イエスさまご自身が現れてくださったということがパウロによって強調されている。第3に、復活の証人と記されてあるところには「十字架」という言葉がセットになっている。十字架刑があったことは事実、しかし一度死んだ人が甦るなどということは普通の常識では考えられないこと、偽証ととられ敵対している陣営に攻撃の材料を提供しかねない。よほどの根拠がなければ言えることではない。しかし信じられない人もいたようで、この反対者たちにパウロはたいへん苦心する。パウロのみならず、現代でもそうである。パウロは「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」といい、復活の主によってパウロは「自分は今、生かされている」という境地に達している。私たちも主によって確かに「今、生かされて」いるのである。