中村吉基一覧

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「承認から証人へ」ルカ24:36-48 中村吉基

今日の箇所に「あなたがたはこれらのことの証人となる」とある。2000年以上前のイスラエルであった主イエスの復活を私たちが知っているのも、直接見た弟子たちに始まり「復活のキリストの証人」となった人々の「証言」が伝えられたからである。「その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」の中の「あらゆる国の人々に」は大切である。主イエスは全ての人と一緒にいてくださる。つい人を選んでしまったりするような醜い心を清めるのが聖霊である。私たちはもっと聖霊の働きを感じなければならない。十字架の後、喪失感と混乱の中にあった弟子たちは、はじめは信じられなかったが食事をとるイエスを見て復活がわかり、喜びの頂点に達した。「使徒言行録」に記されているようにたったの11人で「すべての人」に福音を伝えた。主イエスは今も、私たちを世界中に遣わされようとしておられる。普段の生活での悩みをうちあけてすっきりする場合があるが、自分の気持ちだけを考えていてはいけない。また遠くでおきたニュースをきいても何もできないと思ってはならない。祈ることや、声をあげることはできるはずである。11人の弟子たちが始めたように、私たちも重い腰を上げなければ何も広がっては行かない。礼拝はイエスの出来事を直接見聞きした弟子たちの「証言」を聞く場所である。一人ひとりが聖霊からの力を受け、教会を形成し、宣教に出かけていこう。

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「心が燃える経験」ルカ24:13-35 中村吉基

ルカによる福音書の終わりの部分である。クレオパともう一人が出会った旅人にナザレのイエスの遺体がなくなったことを話すと、その初対面の「旅人」にバカよばわりされ、教えをうける展開となる。そしてエマオで彼を無理にひきとめ食事をしている最中に、イエスだとわかったが、その時イエス姿は見えなくなった。その後2人は「心が燃えていた」という体験について話し合う。私たちが信じている神は高いところに鎮座しているものではなく、私たちの只中に近づいてこられる。礼拝では最初に招詞がある。辛い現実から集められ、み言葉を通して、主イエスから福音を告げられて 励まされて、そうして時にパンを割いてご自分を渡し、私たちのうちに共にいて下さる。復活の主に出会えるのが礼拝、礼拝には力がある。このことに気づいて、共に喜ぶことのできる礼拝者でありたい。

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「失望から希望へ」マタイ28:1-10 中村吉基

祝イースター、神はイエス・キリストを死から復活させられた。まわりには、戦争や搾取など神の力は弱く悪が強いように見える。神の力に、死も悪も打ち勝つことはできないのだが、なかなか信じることができない。二千年前の復活にあった人達も非常に恐れている。ある人は仕事を捨て、家族と離れ、すべてを委ね、信じ、従っていた主イエスが十字架で殺されたのである。しかし死に打ち勝って神に復活させられた主イエスはもう安心するよう人々に語る。人間はだれでも生きていれば失望することがある。失望すると挫折をする。失望、挫折がなければ人間の成長はない。しかしそこに希望もまた生まれる。神の力を身体中に、心の隅々にいただいて、自分の足で立ち上がるのである。今日の箇所「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」とある。主イエスを甦らせたのと同じ神の力を、あふれるばかりの光を一身に受け、私たちのガリラヤに行くのである。「希望は失望に終わることはない」(ローマ5章5節、口語訳)。失望を希望に変えられてたどり着くところゴールに主イエスが待ってくださっている。そこへの希望の扉を開こう。

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「わたしを思い出してください」ルカ23:35-43 中村吉基

ゴルゴダの丘の上の3本の十字架のうち2本は悪事を働き死刑宣告を受けた二人の罪人もので、もう1本はイエスのものであった。罪人のうちの1人は、他の律法学者、議員や兵士と同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵る。しかしもう1人はイエスが救い主であることをすぐに信じたのか「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」といい、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う。イエスはそれに対し、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言う。その罪人がどのような人生をおくってきたのか一切問わず、心をいれかえ神へと方向転換しただけで救いの手を差し伸べられたのである。この「楽園」という言葉はパラディソス、エデンの園、つまり神と人とが結ばれて平和に暮らしている世界、それが楽園である。力をなくした状態の中でも、神が共にいてくださることに気づいたときそこはもう楽園である。受難週にあたり十字架に架けられたイエスが「父よ、彼らをお赦しください」と祈ったことを憶え、我々も「自分自身を傷つけた人」をゆるし、私たちが神のみ前でゆるすのはいったい誰なのかを考えよう。その時、我々は憎しみから解放されるのである。

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「あなたを揺り動かす愛」ヨハネ11:1−27 中村吉基

私たちは死後お墓の中で不自由な生活を恐れるが毎日の生活の中での絶望もまた墓場の状態である。主イエスはその墓場から神が造られた素晴らしい世界へと引き戻してくれる。今日の箇所で、ラザロの病を聞いたイエスは2日間とどまりラザロは死んでしまい、マルタや他の人々は「もう少し早く居てくだされば・・・」と口にする。私たちの祈りが届かなかった時のようである。主イエスは神がお定めになった「時」をじっと待っていたのである。長い人生の中には計画どおりにいかないことがあるが神が自分のために何もしてくれないのではなく、神が働いてくださる時が用意されているからである。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか?」という言葉がある。今日も主イエスはこの問いを呼びかけておられる。「はい、信じます」と心から応答する私たちでありたい。

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「私だけではなく、私たちすべてが」ルカ11:1‐13 中村吉基

弟子たちに請われてイエスが教えた祈りが、「主の祈り」である。ここに一番でてくる語は「わたしたち」である。「私ひとりの祈り」ではなくみんなの祈りだという教えである。それは旧約時代の共同体意識、神と民たる私たちとの考え方である。「必要な糧」という祈りも、栄養失調のために死亡する子どもの数が多かったこの時代に「わたしだけの糧」ではなく「わたしたちの糧」を祈っている。主イエスが食事をする場面はたくさん出てきますが、いつも誰かとパンを分かち合っておられる。今日の箇所では、どのような心で祈るべきかの教えもある。それが「求めなさい、そうすれば与えられる」である。忍耐強く「たたき続ける」ならば必ず門は開かれ、求めるものは与えられる。この箇所は物乞いの振る舞いを描写していると言われる。最下層に置かれていた社会的弱者と飲食をともにし、願いに応え、やがて彼らがいきいきと生きていくことができる共同体を生み出していく行動に結びついての祈りである。このことはいかに神が私たちを愛してくださっているかを思い起こさせる。この祈りを通して力を与えられている。それを人びとに運んでいくのが私たちに託された務めである。

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「神の国はあなたたちのところに」マタイ12:22-32中村吉基

口の利けなくなっていた人が主イエスによって癒される奇跡をみて、人々は「この人はダビデの子(待ちに待った救い主)ではないだろうか」と驚く。イザヤ書35章にある神の約束が主イエスによって実現した時でもあった。主イエスの人気が高まり行く先々に群衆は押し寄せるほどとなると、疎ましく思ったり、妬んだり、ストレートに大嫌いだとする人もでてきた。ファリサイ派もその一例である。彼らは奇跡は認めるが、その力を神ではなく悪霊の頭のものであると主張した。そうではないと、イエスを救い主と認め自分たちの権威を捨てなければならないからである。しかしイエスは「サタンがサタンを追い出せば内輪もめではないか」と反論し、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのかとも訊く。ファリサイ派は考えを新しくすることを恐れ神の力を悪霊の力としたが、それは聖霊への冒涜なのであると次の箇所に続くのである。イエス・キリストと私たちの出会いは、私たちの側が変化することが求められる。受難節が始まる灰の水曜日に「ちり」からできた存在であることを確認し、御独り子を与えるほどにこの世を愛し、十字架の死からご復活まで神の栄光を見せてくださった神に、罪をわび、ゆるしていただく。また謙虚さが足りないときにじっくり黙想をして神に方向転換をする力をいただきたい。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」という言葉を信じて歩いて行こう。

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「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』」マタイ5:37、26:52 中村吉基

2/11は日本のプロテスタント教会の「信教の自由を守る日」。明治政府が日本書紀の記述をもとに天皇中心の歴史観で1872年に定めた紀元節は、第2次世界大戦後は廃止されたが1967年から「建国記念の日」として復活した。日本キリスト教団は戦時に体制側に擦り寄り信仰を捨て戦争に加担した反省があり同年のイースターに「戦争責任告白」を発表し、同日を「信教の自由を守る日」とした。今日の箇所「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」は「誓ってはならない」に続く言葉である。当時の誓いは身を滅ぼし命がなくなるようなものもあり、イエスはそのような事に神の名をみだりに使って誓うことなどは傲慢だと指摘した。命や物質的なものすべては神から預けられたものであり、自分の好き勝手にしていいものではない。命は仕事や国に捧げていいものではない。私たちには「拒否」する自由も与えられている。防衛費を増大させ、かんたんに戦争に加担するような国に対して決して無責任・無関心になるのでもなく「イエス」か「ノー」かを積極的に選び取り行動を起こしていきたい。

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「天の国は誰のものか」マタイ5:1〜12 中村吉基

イエスが山上で神について教え始められた最初の教えとして位置づけられ、教えのすべてが凝縮されているということも可能な今日の箇所「心の貧しい人々は幸いである」から8つの「幸い」は、病などで苦しむ人々を癒した後その群集の前にした説教である。イエスは行動目標を決めたわけではない。当時は「細かい律法を守ることなしに人間は救われない」とされており、その信仰から脱落してしまった人もいた。イエスは古い信仰を終わらせ新しい教えを伝えた。貧しい人、悲しむ人々は「幸いである」とは「素晴らしい知らせ」と表現する人もいる。そして柔和な人々、義に飢え乾く人々、憐れみ深い人々と続く。それぞれ実現が難しいことであるが、主イエスは成し遂げられている。つまり、相手に何が必要かを考え、相手の幸せを願って、自分の力を使う人々のことである。最後の「義のために迫害される人々」については熟慮して読まねばならないが、今日も主イエスは語ってくださっている。今日の箇所では「粘り強く」「頑丈に」行きなさいと教えられている。「天の国はその人たちのものである」というその人たちの中には私達も含まれいてる。この主イエスの約束を信じて「素晴らしい知らせ」を告げられた者たちとして歩んでいきたい。