「欠けていることは幸い?」マタイ中村吉基

イザヤ書58:1-9前半;マタイによる福音書5:13-20

私たちはどこかに欠点を抱えています。欠点がない、という人がいたならばよほどの自信家か、大嘘つきでしょう。たとえば今新しい仕事に就こうとしている人は、どのようにその道を進んでいいのか、まだわからないかもしれません。すでにある程度仕事をしている人は、最終的にどこに向かっているのかわからないかもしれません。そして、仕事上で「うまくいっている」人も、どこか物足りなさを感じているかもしれません。それはなぜでしょうか。 

それは私たちが神に向かって造られた存在だからです。その上でもし私たちが自分ひとりで何もかもやり通せる、やり尽くせると思っていたならば、私たちのどこかに「空しさ」を感じることがあるのです。

すでに洗礼を受けている人は、そのことに気づいているはずです。洗礼によって自分中心の生活から、神とともに結ばれて生きる生活に入れられたからです。ですから、キリスト者はもっと気持ちを楽にして生きていいはずです。自分に欠けている面や、必要とすることがあれば、とことん自分ひとりで頑張らないで、「神さま、助けてください」と言えば良いのです。私たちにはそういう特権が与えられています。神は柔和な方です。困っている人を見過ごされません。

また、私たちは「認める」ということがなかなか簡単にできません。皆さんは「認める」という言葉をどのような時に使うでしょうか。「誤りを認める」「悪を認める」「不具合を認める」、「認められる」というのは他者によってなされることですが、「認める」というのは自分がすることです。「問題を認める」「失敗を認める」。これらは消極的な言葉の羅列になりましたが、そういう「自分を認める」ことが大事なのだということをお話ししたいと思います。

「自分を認める」−−−自分の良さ、長所を認めることも大切ですが、それ以上に自分の欠点、短所、弱さを認められる人は幸いです。なぜなら、自分の弱さを知っている人は、可能性を秘めた人だからです。パウロは「主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(Ⅱコリント12:9~10)と言いました。私たちは見栄を張り、人前でいい格好をしようとします。けれども弱さを認めるとは、そのような自分を捨て、ありのままの姿をさらけ出すことです。自分の弱さを知っている人は、強い人と言ってよいと思います。自分に足りないことは何かをきちんと弁えている人には道が拓かれてきます。時に、自分のことが大好きで、自慢話ばかりをする人います。その人の話は反対に自分の欠点ばかりをあげつらっているようにも聞こえます。実に不幸な人だと思える瞬間です。自分に欠点がないと思っていることが欠点なのです。ある人は、人にどう見られているかが心配でなりません。人の自分への評価が気になるのです。おそらく幼少期からそうなのかもしれません。人の評価を上げるために、お金で解決できると思っている人もいます。しかしそうすればそうするほど、人の評価は下がっていくものです。仮面を被ったように自分のことは何一つ本当のことを言いません。平気で嘘をつく人は、まことしやかにいろいろなことを言ってくるものです。

欠けていることは幸いです!少し前のマタイ4章24節にありますが「いろいろな病気や苦しみに悩む者」であった群集もこの主イエスの説教を聞いていたのでした! 自分に欠けているところがあるならば、それ自体が、神からのお恵みだと思ってほしいのです。それは自分が積極的なるお恵みなのです。そして本当の自分と向き合ってほしいのです。

主イエスは今朝私たちに「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言ってくださいました。塩というのは、今は高級な塩もありますが、比較的安く手に入ります。しかし、主イエスの時代は高級品だったのです。しかし塩は世界のどこでもなくてはならないものでありました。もちろん人間の身体に必要な塩分であるとか、食料を腐らせないための塩、また食料を保存するための塩、傷口に塗る塩、使い道はさまざまです。古代のローマでは塩で兵士の給料が払われていた時代もあるんです。塩はとても小さな粒ですが、私たちの生活には欠かせません。空気や水にも匹敵します。主イエスは私たちにピリリと辛い塩の役目をこの世界で帯びているのだと教えてくださっています。

「あなたがたは世の光である」という言葉も、同じです。光は周りを明るく照らします。隠れているものも光に照らし出されて見えるようになります。神という方ご自身が光です。私たちは神に造られた「子」ですから、親が光なら、当然子である私たちにも光を受け継いでいます。私たちは塩のように小さくてもなくてはならない存在として周りの人々を生かしてあげることができます。また光のように、悲しい人や苦しんでいる人や、心が暗くなっている人を輝かせてあげることができるのです。

主イエスはここで「地の塩になりなさい」「世の光になりなさい」と命令してはいません。「あなたがたは(今もうすでに)地の塩である」「あなたがたは(今もうすでに)世の光である」と主イエスは宣言されました。塩でない者に向かって無理して塩味を出しなさいとか、光でもない者に向かって無理して輝きなさいというのでは決してありません。むしろ、もうすでにあなたがたは塩なのだから塩味を出すのは当然であり、光なのだから周囲を照らすことができるというのです。

16節を読んでみましょう。

「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

私たちの誰もが神から光をいただいています。この光は人間が作り出した光ではなく、神からのものです。だから私たちの内側から輝き出ようとしている光を自分自身で妨害してしまわないように、と主イエスは言われます。そして「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」とありますが、私たちの普段の生活を見て、まだ神や主イエスを知らない人たちが、神や主イエスを知るようになるのです。

今から2000年前のパレスティナのガリラヤの丘の上で主イエスの話を聴いていた人々にとって、この言葉は驚くべき言葉であったにちがいありません。先々週の礼拝で聴きましたが、主イエスの弟子と言っても元は漁師たちで、無学なごくごく普通の人だったからです。周りにいた群衆はいろいろな病気や苦しみに悩む人々でした。社会的に見ればたいして立派ではなく、多くは何の役に立たない、律法の基準からすれば罪びとに近いような人々、いてもいなくてもいいと思われていたような人々。その人々に主イエスは「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われました。主イエスは何の根拠も示しません。あなたは何ができるからとか、他の人よりもどこが優れているから、ではないのです。神から見れば、無条件に、あなたがたの一人一人がかけがえのない大切な塩であり、すばらしい光なのだと言われたのです。それが主イエスの伝えたいことでした。

山上の説教で、主イエスは神のみ心にかなうことが何であるかをはっきりと示しています。その中には非常に厳しく、人間には実行困難と感じられるようなものも少なくありません。敵を愛しなさい、情欲をもって人を見てはいけない、一切誓ってはならない……。ですから山上の説教を読むときに、このような言葉を補って読んでみるとよいと思います。「神はあなたを愛してくださっている。だから~」「神はあなたを地の塩、世の光と見ていてくださる。だから~」「あなたはもうゆるされて、神の子とされているのだ。だから~」・・・・・・。

私たちは「あなたがたは地の塩である」「世の光である」という主イエスの福音を本気で受け取ることができるでしょうか。私たちの周りに目をやれば「おまえはダメだ」「おまえなんかいてもいなくてもいい」「おまえがどうなろうと知らない」というような言葉や価値観が、社会の中で、職場や学校で、そこだけではなく、もっと親しい間柄の人と人の間で飛び交っている現実があります。そのような現実の中で私たちの周りの多くの人たちが今、「あなたがたは地の塩、世の光である」というメッセージを必要としているのです。