「心が燃える経験」ルカ24:13-35 中村吉基

列王記下7:1-16;ルカによる福音書24:13-35

私は、書店で立ち読みをしたり、図書館で本を手にする時に必ず裏表紙から開けて、いわゆる「奥付け」と呼ばれている最後のページから見る癖があります。その本の内容はさておいて、その本がどれだけ売れて版を重ねているのかということや、それが発売されてどのくらい経ってのことなのか、というようなことをよく見ます。これは以前私が書籍の編集の仕事を長くしていたからでしょう。それと同じようにその少し前の「あとがき」を読んで、内容を手っ取り早く確認しようとすることもあります。私自身もかつて編集者として帯の文言、あるいは広告原稿を書いたことがありました。また本の著者として「あとがき」を書くこともありました。「あとがき」には著者の意図が記されていたり、解説や時には「言い訳」も記されます。

そういった意味では、今朝共に聴きましたルカによる福音書にはいわゆる「あとがき」のようなものはありません。しかし、ルカ福音書の終わりの部分がどのように書かれているかを知っておくことは大切なことだと思います。

主イエスがお甦りになったその日夕方、二人の弟子がエルサレムを去り、60スタディオン(約11キロ)離れたエマオへ向かって歩きはじめました。この2人は歩きながら、一切の出来事について話し合い、論じ合っていました。この「一切の出来事」というのは、主イエスが十字架において殺害されたのでしたが、その「主が生きておられる」と女性たちが証言したことの顛末についてでした。そこへ、主イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められました。でも、どういうわけでしょうか、2人の目は遮られていて、主イエスだとは分からなかったのです。ただの旅人にしか見えませんでした。

その「旅人」が声をかけました。「何やら熱心にお話しのようですね。いったいなにが問題なんですか?」 2人は暗い顔をして立ち止まり、クレオパという人が答えました。「エルサレムに滞在していながら、先週末に起こったあの出来事を、あなたは知らないとはどういうことですか」。

その「旅人」は聞きました。「どんなことですか」と……。

2人はせきを切ったように話し始めました。

「ナザレのイエスのことです。この方は、信じられないようなことをいくつもなさった預言者でした。素晴らしい教師でもありました。それなのに、わたしたちの祭司長たちや他の宗教指導者たちは、死刑にするためにローマ帝国に引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で3日目になります。ところが、仲間の女性たちがわたしたちを驚かせました。女性たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ『イエスは生きておられる』と言ったというのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、聞いていた通りとおりで、主イエスは見当たりませんでした」。

2人は、衝撃と困惑を隠さずに語りました。この2人、クレオパという人、この人は一説によればイエスの養父となったヨセフの兄弟で、のちにエルサレムの教会の監督となった人だとも言われています。もう1人の名は分かりません。クレオパの連れ合いであったという推測もあります。ただ、なぜこの福音書を書いた人々は、この人の名を伏せたのかを考えてみる必要があります。これだけ状況を詳しく書くのだから、もう1人の人はルカ自身ではなかったかという説もあるほどです。いずれにしても、ここを読むとき、この2人が、主イエスにたいへんなくらいに期待をして、それは一生をかけてのことであったかもしれないということです。

さてその時に、黙って聞いていた「旅人」が言いました。「あなたたちは、どうしてそんなに心が鈍いのですか。預言者たちの言ったことすべてが信じられないのですか。キリストはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではなかったのですか」。言わば 見知らぬ「旅人」からバカ呼ばわりされて2人は驚いたに違いありません。その「旅人」は会話の主導権を握り、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり」メシアについて書かれていることを説明したのです。

そうこうするうちに3人は、エマオに近づいてきました。「旅人」はさらに先へ行こうとする様子でしたが、旅人に宿を提供するのは当時の慣習でありました。その上、この2人は「旅人」からもっと話を聞きたいと思っていたに違いないのです。「2人が、『今夜はどうぞ私たちと一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう外も暗くなってきましたから』と言って、無理に引き止めたので」その「旅人」は共に泊まるため家に入った。事は極めて自然に、静かに運んでいきました。

一緒に食卓に着いたとき、その「旅人」はパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。その時、2人の目が開け、この「旅人」が主イエスだということが分かりました。しかし、主イエスの姿は見えなくなりました。「2人はあっけにとられながら、『そういえばあのお方が道で話しておられるときにも、また聖書を説き明かしてくださったときも、私たちの心は燃えていたよね』と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、11人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。2人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」。

この話には段階が3つあります。第1段階ではガッカリして絶望しているその人のところに、いつの間にか主イエスが寄り添って一緒に歩いているということです。ここには一つの特徴があります。主イエス御自身が近づいてくる。これは主イエスによって私たちに明らかにされた神の姿を現していると言えます。聖書において知ることのできる私たちの神は、遠く、あるいは高いところに鎮座していて、そこに私たちがたどり着いてお参りに行くような神ではありません。私の、私たちの只中に近づいてこられる神だと言うことです。このような神を私たちは信じているわけです。

「おのずから近づいてきて、寄り添って私たち一人ひとりとともに歩んでくださる神」このように神を感じられたことがあるでしょうか。自分のこととしてとらえるならば、皆さんの人生において、それはいつの、どんな時だったでしょう。何度もあったかもしれませんし、昨日の夜もそうだったかもしれない。ガッカリして真っ暗闇になって辛い時に、いつの間にか隣に神がいて、一緒に歩いている、でもそれに気づかないという状態です。

第2の段階は、その主イエスが「どうしたのか? 何か辛いことでもあるのか?」と尋ねてくる。関わってくる。そして、「こんな出来事があって、とても辛いんです」と打ち明けると福音を告げる。「あなたは神の愛を知らず自分の世界にとらわれている。いったんその自分の世界に死んで神の命の世界に解放されれば、そこに本当の救いと喜びがある。あの主イエスの死は実は全ての人をそんな神の愛のうちに招き入れる出来事だったのだ」と、そう解き明かされて目が開かれて、元気になって心が燃えてくる。そこで福音を告げてくれたその人を引き止めて一緒にいてもらおうとする。

そして第3の段階で、主イエスはパンを割いて渡し、最後の晩餐を再現し、死と復活を体験させ、弟子のうちに住まわれる。そこからイエスを信じるものの共同体、すなわち教会が誕生していきます。実際目が開かれて「主イエスだ」と分かったら、主イエスは見えなくなるわけですけれども、これは主イエスがもはや私たちと一つになったということではないでしょうか。

どうでしょうか。不思議なお伽話に聞こえるでしょうか。みなさんのこれまでの人生の旅路にこんな経験が無かったでしょうか。主イエスに結ばれている人は誰でも、このような段階を体験しているはずです。先週と先々週の礼拝で私たちは聖餐を共にしました。信仰のうちにパンを割き、共にそのパンを食べたときに主イエスは現実のイエスとして存在するのです。それはこのエマオへの出来事そのものなのです。ここに救いがあり、目覚めがあります。そしてこの復活体験によって弟子たちは時を移さず出発して、下手すれば殺されるかもしれないエルサレムにまた戻っていく。そのような段階が私たちの信仰の歴史ですし、実は私たちが今朝もこのように捧げている礼拝自体もそのような仕組みになっていることにお気づきでしょうか。礼拝の最初に告げられる神の言葉は「招詞(しょうし)」と呼ばれる神ご自身からの皆さんへの招きの言葉です。またこの寄り添う神によって、辛い現実から集められ、み言葉を通して、主イエスから福音を告げられて 励まされて、そうして時にパンを割いてご自分を渡し、私たちのうちに共にいて下さる。今朝の礼拝では主のみ身体をいただきません。しかし、主イエスがパンを割いてくださった食卓を囲んで、あの食事を思い出して礼拝しています。復活の主に出会えるのが礼拝です。礼拝には力があります。主イエスがここに、私たちのうちにおられることを深く味わう礼拝には大きな力があるのです。私たちはこのことにいつも気付いていて、共に喜ぶことのできる礼拝者でありたいと願います。