エマオ一覧

NO IMAGE

「絶望のその先に」ヨハネ20:19~31 中村吉基

イエスの十字架刑後、ユダヤ人を恐れて鍵をかけ家にこもっていた弟子たちの真ん中にイエスが立ち、手とわき腹とをお見せになり、「あなたがたに平和があるように」と言われた。しかし弟子たちはそれがイエスであるとはすぐにはわからない。どうも違う姿であったようである。そこでイエスがおっしゃった「あなたがたに平和があるように」とはヨハネ14章の言葉と関係があり、これから聖霊が到来するのだという宣言でもある。さて。その場にいなかったトマスは躓いたままだった。しかしイエスはそのトマスのところにも行き、傷を触らせた。じかに主イエスの傷跡にふれたトマスは主イエスが生きておられることを確信した。イエスが十字架刑になったことで、固まってしまった人びとの心をイエスが愛とゆるしに満ちた言葉で溶かしていく。復活は絶望的になっていた人びとが再生する道を与えた。家に閉じこもっていた弟子たちは外にでて教えを宣べ伝え、多くの弟子たちが最後には殉教することもいとわなくなっていた。これが神の愛の力である。そして私たちもこの神の愛を知ることによって、包まれることによって変わることができるのである。

NO IMAGE

「心が燃える経験」ルカ24:13-35 中村吉基

ルカによる福音書の終わりの部分である。クレオパともう一人が出会った旅人にナザレのイエスの遺体がなくなったことを話すと、その初対面の「旅人」にバカよばわりされ、教えをうける展開となる。そしてエマオで彼を無理にひきとめ食事をしている最中に、イエスだとわかったが、その時イエス姿は見えなくなった。その後2人は「心が燃えていた」という体験について話し合う。私たちが信じている神は高いところに鎮座しているものではなく、私たちの只中に近づいてこられる。礼拝では最初に招詞がある。辛い現実から集められ、み言葉を通して、主イエスから福音を告げられて 励まされて、そうして時にパンを割いてご自分を渡し、私たちのうちに共にいて下さる。復活の主に出会えるのが礼拝、礼拝には力がある。このことに気づいて、共に喜ぶことのできる礼拝者でありたい。