「承認から証人へ」ルカ24:36-48 中村吉基

イザヤ書51:1-6;ルカによる福音書24:36-48

いま、21世紀を生きている私たちが、2000年前に日本から遠く離れたあのイスラエルで神の力によって主イエスが復活させられたことをどうして知っているのでしょうか。今日の箇所の最後のところに「あなたがたはこれらのことの証人となる」とあります。すなわちイエス・キリストが復活させられたことの「証人」になる、ということです。

私たちは主イエスの弟子たちのように直接、復活された主イエスのみ姿を見て、キリスト者になったのではありません。この時、復活の主に出会った弟子たちから始まり、「復活のキリストの証人」となった人々の「証言」が2000年の時を経て、皆さん一人ひとりに、あるいは教会に伝えられたのです。2000年間ずっと主イエスのお命じになった言葉を大切にして弟子たちから人々へ、人々からそのまた主イエスの教えを知らない人々へ伝えられていったのです。こうして福音の言葉は地域を越え、国を越え、海を越えて私たちのもとに届けられたのです。弟子たちが主イエスの証人としてエルサレムだけで働いていたなら、私たちのもとには福音は届かなかったかもしれません。

「その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(47)と記されてあるように弟子たちは一人でも多くの人に主イエスの教えを伝えようとしたからこそ、今日、この日本にいる私たちのところまで福音が届けられてきたのです。今は海外に容易に行くことができる時代ですから、旅をしたりするとあらゆるところに教会が建てられていることを目の当たりにするでしょう。世界中に福音が伝えられています。日本のあちこちに教会が建てられているのも、この代々木上原に私たちの教会があるのもすべて、2000年前のあの主イエスが復活されたことの「証人」になったのが。そもそもすべての始まりでした。

「あらゆる国の人々に」というところが大事です。すべての人といつも主イエスは一緒にいてくださるというのです。「この人はいいけど、あの人はダメ」なんていうこともないのです。皆がキリストに繋がり、元気なときも辛いときも……いつも一緒にいてくださる。これが信仰の素晴らしさです。主イエスに繋がっていなかったら、今頃私たちはどう歩んでいたでしょうか。「自分の好きな人だけ…気が合う人だけ…話を聴いてくれる人だけ」が主イエスのもとに集まろう! などということになるのではないでしょうか。その醜い私たちの心を清めて、人間が本来持っている美しい心に変えてくださるのが聖霊の働きです。私たちはもっと聖霊に願わなくてはなりませんし、もっともっと聖霊の働きを感じなければなりません。

今日の箇所、先週からの続きです。ルカ福音書が伝えるところによれば復活させられた主イエスが、エルサレムに集まっていた弟子たちに現れたことを記しています。主イエスは弟子たちに手と足の傷を見せました。なかなか弟子たちは主イエスが神によって復活させられたことを信じられなかったのです。主は確かにご自分が復活されたことを弟子たちにわかってもらおうとしました。そして弟子たちの見ている前で焼いた魚をお召し上がりになったのです。弟子たちはこの時まだ、主イエスを「亡霊」だと思っていました。おそらく生前、主イエスが弟子たちと一緒に食事をとられたのと同じ仕草、食べ方であったのでしょう。それを見てイエスご自身がまことに活きた身体をもって復活させられたのだと示されたわけです。

弟子たちは主イエスが十字架で死なれたことで、どんなに落胆したでしょうか。イエスというお方を信じて、従ってきて、主イエスがすべてであった人たちに、主イエスの死によってもたらされた大きな悲しみ、大きな喪失感、そして大きくぽっかり開いてしまった心の穴。もう立ち上がれなくなるほどの絶望、この先どのように生きていって良いのかわからないほどの混乱。そんな時、主イエスは約束どおり、復活されました。主イエスの側から自分たちに会いに来てくれたのです。今も、これからも主イエスが共に居てくださることを弟子たちはどれだけ喜んだでしょうか。悲しみのどん底に落とされていた人が喜びの頂点に達したのでした。

この時からの弟子たちの変わり様は今日のルカ福音書の続編である「使徒言行録」などの書物においても明らかです。たとえばあの一時は主イエスを「知らない」と言ったペトロは公然と主イエスのことを宣べ伝え始めます。「使徒言行録」の2章、3章などにはイエスを十字架につけた祭司やサドカイ派の人々を前に堂々とメッセージを語っているところが記録されています。2000年前、最初はたったの11人の弟子たちからのスタートでした。しかし、この人たちはそこで怖気づいたり、留まったりしないで主イエスのお言葉の通りに「すべての人」に福音を伝えたのです。こうして皆で力を合わせて「復活の証人」となったことで信者に加えられる人々が増えて行きました。こうして復活の主イエスとの出会いがもう死にそうになっていた、力を失っていた弟子たちに再び活力を与えたのです。「主イエスは神ですよ!」とこの言葉は2000年の歴史を貫いてきたのです。ある人は伝道者になりました。ある人は音楽や美術で主イエスを表現しました。文学で主イエスを伝えた人がいました。そして多くの人たちは自分の仕事や普段の生活の中で主イエスを伝えました。こうして世界に福音が伝えられていきました。

そして主イエスは今も、私たちを世界中に遣わされようとしておられます。私たちにはいったい何ができるのでしょうか。

私たちは毎日毎日、人とのかかわりにおいて生活しています。家庭で、職場で、教会で、人とかかわっています。誰かと一緒に何かをしたりします。中にはどうしても合わない人もいるでしょうし、また悩みをかかえて困っていてどうしようにもない人もその中にいるかもしれません。私たちはそういう人の立場になって考えたり、声をかけたり、話を聞いたり、一緒に悩んでみるということがあるでしょうか。人は不思議なもので誰かに悩みを打ち明けるだけですっきりすることがあります。私たちは自分がすっきりすることだけに明け暮れていないでしょうか。

また私たちはテレビや新聞などで外国の人のこと、あるいは国内でも遠いところの人々のことを聞いても、私たちには何もできない、関係ないと思ってはいないでしょうか。しかし、その人たちやその国や地域を憶えて祈ることはできるはずです。平和を祈ることは私たちにできるはずです。そして悪が行われているところ、不正に対して反対することも必要です。私たちの声や力は小さいかもしれません。しかし主イエスの弟子たちもこの時11人から始めたのです! そういう私たちに主イエスは「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われます。私たちは重い腰を上げなければ何も広がっては行きません。

先ほども申しましたように私たちは主イエスに間接的に出会った者たちです。しかし、イエスに出会える機会があります。それはこの礼拝においてです。先週も申し上げましたが、イエスの出来事を直接見聞きした弟子たちの「証言」を今ここで聴いているからです。そして神のことばやパンと杯を通して活けるイエス・キリストに出会って、私たち一人一人がキリストに結ばれる時、それが<礼拝>です。こうしてわたしたちも「あなたがたはこれらのことの証人となる」とキリストに祝福をされ、この世での生活に派遣されていくのです。復活の主イエスが私たち一人一人の日常での生活に息づいてくださり、その証人としての私たちの歩みを祝福してくださるのです。

今日の午後私たちは教会総会を開きます。この1年の恵みに感謝して、また新たなる1年を重ねていこうとしています。教会に連なる私たち一人ひとりは、主イエスの復活の証人です。

今年の年間聖句は、ヨハネによる福音書5章17節の

「わたしの父は今もなお働いておられる。だからわたし(イエス)も働く」

という主イエスご自身の言葉から、私たちも主の後に続いていこうと「主イエスに連帯して奉仕しよう」と、標語を掲げました。一人ひとりが聖霊からの力を受け、教会を形成し、宣教に出かけていきましょう!