「あなたを揺り動かす愛」ヨハネ11:1−27 中村吉基

イザヤ書50:4−9a;ヨハネによる福音書11:1−27

深夜に教会の電話が鳴って、出てみると電話の向こうから泣いている人の声が聞こえました。「疲れてしまった」とその方は言いました。きっとどん底にいる気持ちだったのでしょう。すべてに見放されてしまった気持ちでいるようでした。しかし、この方は信仰を持っている方でした。牧師に電話をしてみようと思い立ったのでしょう。でも、私に最初に電話をしてきたわけではなく、5番目だったということでした。知り合いの牧師さんに片っ端から電話をしていった様子でした。最初の牧師は「自分の教会の牧師さんに電話しなさい」って、困惑気味に話されたそうです。次の牧師さんたちはもう深夜ですし携帯につながらない。中にはお休みになっていた方もあるようでご家族が「明日にしてください」と対応された。そして私のところにかけてきたのだというのです。

ときどきこういう電話やメールをいただきます。時には他の教会の牧師さんから紹介されて「じゃ、あとは頼むから」って言われることもあります。どういう出会い方であれ人と出会うのは一つの喜びがあります。その出会いを大切にして福音を伝えていく機会になればと願っています。いろいろな方が居られ、連絡をくださり、教会を訪ねて来られます。

平日の教会にも日曜日とはまた違う「顔」があります。半信半疑で私の話を聞いている人やある時「自分のような者は地獄に行っても仕方がないです」と言う人に、「それじゃ私はあなたよりもっと地獄の深いところに行くでしょうね」と言うと、地獄に階層があるかどうか知りませんが、驚きを隠せなかった人(この牧師さん、何の悪いことを仕出かしたのだろうという顔つきで)などなど・・・。最初にお話しした深夜の電話の方は、少し話しただけでもう笑い声が受話器から聞こえてきました。

さて、多くの人は亡くなられたらお墓に入ります。しかし、今は毎日自由な生活を送っていて、死んでしまったらあの狭いお墓の中で不自由な日々が待っていることに恐れを抱いているでしょう。でもそれは逆だと言わねばなりません。毎日の生活の中で「疲れてしまった」とか「死んでしまいたい」とか、気持ちがどん底に落ち込んでいたり、先が見えなかったり、これはみんな「墓場」の状態なのです。主イエスはその墓場にいるような私たちを、神が造られた素晴らしい世界へと引き戻してくれる。皆さんの手を引っ張って、もうこれ以上悪い方向に行かないようにしっかりと私たちの腕を、身体をつかんでいてくださるのが主イエスです。25節からのところに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか?」という主の言葉があります。主イエスこそ死を超えて、最初に甦られました。この主イエスを心から信じ、つながっている者は「死んでも生きる」と言うのです。「死んでも生きる」なんて不思議に、またおかしく聞こえるでしょうか。人間死んでしまえばおしまいではないか、と思われるでしょうか。けれども主イエスが与えてくださるいのちは「永遠のいのち」です。今、死んでいる私たちを、墓場にいる私たちにいのちを吹き込んで、呼び戻してくださいます。私たちが主イエスの息吹でいきいきと生きられるようになるのです。

今日の箇所はベタニアというエルサレムから近いところにいたラザロという人の記事です。このラザロはマルタとマリアの兄弟でした。ある時マルタとマリアは主イエスのもとに使いを出してラザロが病気であることを告げました。主イエスはこの時、ヨルダン川の向こう側に滞在されていたからです。なぜそこにイエスが居られたのかと言うと、敵対者たちから逃れ、安全なところへと身をかくまっていたからです。しかし、そこにラザロが病気であるとの知らせが入りました。一つ引っかかるところがありました。それは6節の「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じところに滞在された」というところです。なぜ居ても立っても居られないという心情ではなく、主イエスは、ラザロが死ぬのを待っているかのようななどと言ったら言い過ぎでしょうか。この6節の様々な聖書の翻訳を読み比べてみると、「それなのにイエスは……、なお同じところに二日とどまっていた」(本田訳)、「よりによって……その場所に二日間留まった」(小林訳)というのです。

けれども主イエスは敵対者たちを気にして逃げてそこに留まっていたのではなさそうです。「もう一度、ユダヤに行こう」(7節)と言われました。弟子たちに引き止められる中、「わたしは彼(ラザロ)を起こしに行く」(11節)と、どうしてもラザロのもとへと行くのだと言うのです。弟子たちは、もう一度主イエスを制止しました。すると主イエスはこう言いました。15節「さあ、彼のところに行こう」と不退転の強い気持ちをもってこの場に臨みました。主イエスはラザロを助け、マルタとマリアを安心させるためには、自分のいのちを失ってもいいとさえ思っておられたのです。

しかし、主イエスが到着する前にラザロは死んでしまいました。マルタは主イエスに言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。私たちもこういうことを言うことがあります。「ああ神がいてくだされば、こんなことは起こらなかったのに」ここには記されていませんが、マルタは「いつか先生が家にいらした時に、私は心からのもてなしをしたではないですか」と思っていたかもしれません。ああでもない、こうでもないと言って不平を言います。誰にだってこういうことを言いたくなった、あるいは言った経験があるのではないでしょうか。私たちの毎日がこういう不平を口にしているような有様です。この物語は44節まで続きますので、これは来週の箇所になりますが、37節のところである人が「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」などとも言います。これは聖書の中に私たちの心の声があらわれていると言ってもいいかもしれません。マルタの嘆きに主イエスがお答えになります。それが、先ほどの「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか?」というみ言葉でした。

主イエスが、ヨルダンの向こう側(10:40)に滞在されていて、ラザロが危篤状態だと聞いても、どうしてなお2日そこに留まったのか? それは4節で主イエスがこのように仰せになっています。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」。主イエスは神がお定めになった「時」をじっと待っておられたのです。ラザロの身に神のわざが及ぶのを今か、今かと待っておられたのです。

私たちがこの世で生きていると、長い人生の中には計画どおりに行かないことが多々あります。それは神がいないからなのではないのです。神が自分のために何もしてくれないのではないのです。皆さん一人ひとりに神が働いてくださる時が用意されています。

最初にお話しをした電話の方は、それからかかってくることはありませんでした。きっとこの方も主イエスの呼びかけが心の底に届けられたのでしょう。今日主イエスは私たちにも「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか?」と呼びかけておられます。私たちが揺り動かされる身に余る宣言であり、約束です。主は皆さん一人一人に「あなたはこれを信じるか」(26節、小林訳)と問うておられます。

「はい、信じます」と素直に、心から応答する私たちでありたいと願います。