ラザロ一覧

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「絶望のその先に」ヨハネ20:19~31 中村吉基

イエスの十字架刑後、ユダヤ人を恐れて鍵をかけ家にこもっていた弟子たちの真ん中にイエスが立ち、手とわき腹とをお見せになり、「あなたがたに平和があるように」と言われた。しかし弟子たちはそれがイエスであるとはすぐにはわからない。どうも違う姿であったようである。そこでイエスがおっしゃった「あなたがたに平和があるように」とはヨハネ14章の言葉と関係があり、これから聖霊が到来するのだという宣言でもある。さて。その場にいなかったトマスは躓いたままだった。しかしイエスはそのトマスのところにも行き、傷を触らせた。じかに主イエスの傷跡にふれたトマスは主イエスが生きておられることを確信した。イエスが十字架刑になったことで、固まってしまった人びとの心をイエスが愛とゆるしに満ちた言葉で溶かしていく。復活は絶望的になっていた人びとが再生する道を与えた。家に閉じこもっていた弟子たちは外にでて教えを宣べ伝え、多くの弟子たちが最後には殉教することもいとわなくなっていた。これが神の愛の力である。そして私たちもこの神の愛を知ることによって、包まれることによって変わることができるのである。

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「ラザロ、出てきなさい」ヨハネ11:28-44 中村吉基

先週引き続きラザロである。ラザロの死後到着したイエスに姉妹のマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という。マルタと同じである。しかしイエスは「もし信じるなら。神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言い、天を仰ぎ「周りにいる群衆のため」と祈り、「ラザロよ、出てきなさい」と言われた。すると、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていたラザロがでてきたのである。現代の私たちにとって「巻かれている」(言語では繋ぐ、縛るのような意味もある)というのはとても厄介である。ガラテヤの信徒への手紙5章1節でパウロが書いているように「「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由にしてくださった」のである。ラザロはキリストによって巻かれていたものを取り払われた。これと同じように私たちも今日イエスはが名前を呼んで下さり、「出てきなさい」と、闇の中から光のあるところへと引き戻してくださる。病の中でも、失望の中でも、キリストがあの重い十字架を背負い、今この時も共に苦しんでくださっている。しかしマルタとマリアのように「主がいて下さったら、こうならなかったのに・・・」と不満を持ってしまっていないだろうか。主は今日も光の中を歩んでほしいと強く願い、「出てきなさい」という呼んでくださっている。

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「あなたを揺り動かす愛」ヨハネ11:1−27 中村吉基

私たちは死後お墓の中で不自由な生活を恐れるが毎日の生活の中での絶望もまた墓場の状態である。主イエスはその墓場から神が造られた素晴らしい世界へと引き戻してくれる。今日の箇所で、ラザロの病を聞いたイエスは2日間とどまりラザロは死んでしまい、マルタや他の人々は「もう少し早く居てくだされば・・・」と口にする。私たちの祈りが届かなかった時のようである。主イエスは神がお定めになった「時」をじっと待っていたのである。長い人生の中には計画どおりにいかないことがあるが神が自分のために何もしてくれないのではなく、神が働いてくださる時が用意されているからである。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか?」という言葉がある。今日も主イエスはこの問いを呼びかけておられる。「はい、信じます」と心から応答する私たちでありたい。

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「分かち合うことから始めよう」ルカ16:19-31 中村吉基

毎週続けてルカによる福音書から神の御言葉を聞いているが、先週に引き続きいかに私たちに与えられている富を管理すべきかということである。今日の箇所はラザロのたとえ話である。この話は一見贅沢をした者が地獄へ貧しい者が天国へ行く話に思えるがそういうことではない。金持ちは悪いことをしたとは書いていないが家の前にいて苦しんでいたラザロに対して無関心だった。マザーテレサの言う「愛の反対」である。死後金持ちはラザロと同じ目に合う。今日の箇所の直前には「金に執着するファリサイ派」とある。神の律法とは神を愛し、隣人を愛し、貧しい人や困っている人のために自分の持っているものを分かち合うという精神があるが、自分の生活の豊さや細かい規定ばかりを熱心になっていたファリサイ派を批判している。その批判は私達のものでもある。後半のアブラハムの言葉は、今本当の教えを聞いているのにそれに心の扉を閉めてしまう私達の態度である。近くにいる小さくされた兄弟とは誰のことか、それぞれの兄弟に心の扉をひらく一週間にしよう。