Shimako F一覧

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「神の心に響く人」ルカ18:9–14 中村吉基

今日の箇所は2人の祈りの譬えである。律法をよく学んで掟を確実に実行するファリサイ派と民衆から「罪人」と同様にさげすまれていた徴税人です。しかし模範的なファリサイ派の祈りはその高慢さと惨めさを包み隠さずに神にぶつけるような(カトリックの射祷を想起するような)徴税人の祈りは対照的です。 私達にはいつでも驕り高ぶる者になってしまう危険性がある。年に一度こうして宗教改革を記念して礼拝を捧げ、信仰を原点に戻そうという運動を思い起こしたい。1414年コンスタンツ公会議で火あぶりの刑に処されたヤン・フスは一般市民にも分かるような簡単なチェコ語の説教書を著わし、各人の心の正義を模索しより神に近い生活を送るべきだと言うのが彼の信条であった。処刑後崇敬の対象とならないようにライン川に灰は流されたが、現在のチェコの旗には彼の言葉「真実は勝つ」が記されている。今日の箇所の終わりには「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」とある他者へのやさしさをより深く行うことのできるように神に力をいただき、そして神の心に響く者へと変えられていこう。

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「心が折れる?」ルカ18:1−8 中村吉基

いつからか使われ始めた「心が折れる」という言葉、「もうだめだ」という時に使わるようだが、人間の本当の底力は危機の時に発揮されるとも言われる。今日の箇所は唐突に「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と始まる。その前はイエスの最期と再臨についての話であるからである。そして「気を落とさずに祈りなさい」とおっしゃり、裁判官とひっきりなしにやってくるやもめの譬えにになる。彼女は自分の訴えを裁判官に取り上げてもらおうと、諦めないで裁判官へ願い出ていた。そして人を「神を畏れず人とも思わない裁判官」はとうとうやもめの訴えを受け入れる。この譬えを通してイエスは弟子や私達に神に訴え、叫びを上げ続けるようにと促しておられる。神はいつでも祈りを聴いて下っていて実現するかは神だけが知っている。だから気を落とさず常に祈ることが求められている。往々にして「神は何もしてくださらない」と思える時があるが、気を落とさずに絶えず祈らなければならない、つまり「祈り続けながらも私たちは信頼して主の応えを待たなければならない。今日の最期にイエスは終わりの日に救い主が来られる時にいったいどれだけの人が信仰を持って祈り続けているだろうかを問う。心が折れてはならない、気を落とさず、決してあきらめない信仰が必要である。

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「神様のお弁当」 ヨハネ6:1〜15 久保彩奈

10月9日は、神学校日・伝道献身者奨励日ということで、日本聖書神学校の久保彩奈神学生に説教奉仕をいただきました。久保さんが責任者を務める野宿者支援活動に関するお話だったため、その活動を守る観点から説教は要約、また音声はなしのアップロードです。

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「惜しみなく与える教会へ」コリントII 8:1-9

25年前、それぞれの歴史をもつ教会がひとつとなって、「神の栄光のため、そして地域に住む人々のために、よく用いられるように願って」という説教とともにこの教会が建てられ礼拝が始まっている。今日の聖書の箇所はパウロがコリントの教会にあてた手紙で、マケドニア州の諸教会について語られている。激しい試練、極度の貧しさにも関わらず、人に惜しまず施す豊かさとなったとある。なぜ貧しいにも関わらず施していたか?マケドニア州のキリスト者たちは今持っているものだけでも分け与えることによって神の恵みがたくさん受けられることを知っていたのである。死海という湖があるが、そこの水は川から流れ込んでくるだけで外に行くことはないので汚れている。人も同じで誰かからもらうことばかりで与えようとしない人は澱んでいく。私たちの教会が与え続ける教会であれば、苦難に陥った時、神の助けがあるだろう。私たちはさらに豊かに種を蒔き続けていかねばならない。祈るだけではなく行動も必要である。