「神の心に響く人」ルカ18:9–14 中村吉基

エレミヤ書14:7–10;ルカによる福音書18:9–14

皆さんが聖書を読んでいて、「ああ、自分に似ているなあ」と思った登場人物が出てきたことがあるでしょうか? 

私は10代の頃、主イエスの弟子のペトロに親近感を持っていました。彼は熱血漢ですが、最後には主を「知らない」という人間的な弱さを持ち得ている。高校生だった私は「ああ、ボクにもあるある、こんなところが……」。あまり人には言えないような自分の欠点も聖書を読めばここにも私のようなこんな人がいるんだ。そう思って「ホッ」としたものです。皆さんにもそんなことがなかったでしょうか。

弟子たちのような実在の人物であろうと、また主イエスのたとえ話に出てくるような架空の人物であっても、聖書の登場人物はすべて自分だと思って読まれると、より神のメッセージが迫ってくることでしょう。今日の箇所も主イエスのたとえ話ですが、ここには2人の人が登場します。「2種類」の人と言ったほうがいいかもしれませんがこのどちらの人にも自分を当てはめて読んでみるとみ言葉に親近感がわきますし、よりよく福音の教えが私たちに伝えようとしていることを理解できるのではないかと思います。

さて、この2人の人とはどういう人かと言いますと、一人はファリサイ派に属する人で、もう一人は徴税人です。ファリサイ派も、徴税人のことも礼拝の中ではお馴染みの人たちです。

ファリサイ派はユダヤ教の一グループで、「ファリサイ」という言葉は律法を守らない連中から自分を「分離」するという意味があります。ですから律法を守ること、特に安息日や断食などを行うことや宗教的な清めを強調しました。福音書の中では主イエスの論敵として描かれています。

さて、もう一方の徴税人ですが、ローマ政府や領主(ガリラヤではヘロデ・アンティパス)の間接税を徴収することを委託されたユダヤ人です。徴税額を偽って自分のものとしてしまい、また、異邦人のローマに仕えていましたから、民衆から「罪人」と同様にさげすまれ社会の隅に追いやられていた人たちです。まずこの箇所を読む前にこのことを念頭に置きましょう。

ファリサイ派は律法をよく学んで、掟を確実に実行する人たちでした。彼が行っていた週に2度の断食は、律法でも決められておらず、自主的にしていたことのようです。また全収入の10分の1を捧げるのも、並大抵ではできることではありませんでしたし、模範的な生活態度であったとも思うのです。おそらく彼は多くの人の尊敬を集め、仰がれていたでしょう。

しかしそれにもかかわらずこのファリサイ人の祈りは、神に聞き届けられる事はなかったのです。なぜでしょうか? それは彼の祈りの言葉ににじみ出てきた高慢な態度です。11節です。「神、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」。そして自分の行いを誇らしげに神に告げるのです。もうこの時すでに彼の中には、掟を実行できない徴税人や他の人々を見下しています。そしてこれだけのことをしている自分には当然神の恵みを受ける権利があると言わんばかりです。そのような心を持つ人の祈りというのは、空しさを感じます。耳障りな響きを持っています。この時、後ろのほうで隠れるように祈っていた徴税人がいましたが、彼に向けた冷たい視線がこの人の祈りを台無しにしていました。

さて、一方徴税人の祈りでは、自分の惨めさを包み隠さずに神にぶつけていきます。体裁よくささげるなどという祈りではなく赤裸々に〈ぶつける〉という表現が合うような気がします。先週の箇所のやもめは〈叫ぶ〉ような祈りでしたが、今日は〈ぶつける〉祈りです。

この徴税人はファリサイ派とはまったく正反対のタイプの、信仰の持ち主です。罪を罪とも思わない自分、何も誇るものがない自分、惨めで弱い自分、そのすべてをお腹の底から吐き出すかのように、「吐露」という言葉がありますが……そういう印象を受けます。けれどもこの祈りこそが神の憐れみにまっすぐに到達する祈りでした。彼の忌憚のない、純粋な態度こそが神の限りのない憐れみを受ける基となったのです。

もう一度、この徴税人の祈りを読んでみましょう。13節です。

「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」。

「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。とても短い祈りです。讃美歌の中には「主よ、あわれみたまえ」(キリエ・エレイソン)と罪のゆるしを願いつつ唱えるものがありますが、これと同じ祈りです。カトリック教会には「射祷(しゃとう)」という短い祈りの習慣があります。たとえば「わが主、わが総て」とか「主よ、あなたに信頼します」とか「主よ、み旨のままに」というような短い祈りです。神への愛、神への信頼、神への感謝を表わす呼びかけです。なぜ「射祷」というのかといえば、天に矢を射るように愛の祈りで神の心に呼びかけるのです。言葉は飾ることはありません。自分の言葉で祈ればいいのです。徴税人のように「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈れることは、たとえ言葉は短くともなかなかできることではないです。ただもう自分の胸を打つだけの、謙遜な祈りというのはなかなかできないものです。

むしろ私たちはと言えば「私はあの人なんかとは違う、私はこんな悪いことはしていない」そういった自己弁護や自分を正当化する祈りの方をするほうが多いのではないかと思います。特に几帳面にやっている人、成功を得ている人、社会的に力を持っている人はそういう祈りに陥りやすいのです。一方、社会的に弱く、小さくされている人は「憐れんで下さい、助けてください」と言うよりほかはないのです。

さて、今日のたとえ話からも分かるように、私たちはいつでも驕り高ぶる者になってしまう危険性をはらんでいます。また内実がともなわない形ばかりのものに陥ってしまうこともあります。だから私たちは年に一度こうして宗教改革を記念して礼拝を捧げているのです。私たちはいつも原点に帰る必要があります。それは自分たちが右に偏って行っていないか、あるいは左に旋回していないか、まっすぐに歩み続けているのか、絶えず吟味する必要があるでしょう。それは宗教改革というより教会やそこで伝えられている信仰を原点に戻そうという運動でした。そのことに思いを馳せながら私たちの教会共同体を共に形づくっていく一人ひとりになりたいと思うのです。

マルティン・ルターの宗教改革から遡って100年以上前にたった一人で宗教改革に取り組み始めた人がいました。その人の名前はヤン・フスと言います。フスは、1370年、ボヘミアの貧しい農村の子どもとして生まれました。しかし、彼は若い日から貧しさに負けず一生懸命に勉強しました。その姿が教会の司祭の目に留まることになります。そして学資援助を受け、プラハ大学(現カレル大学)に入学をするのです。フスは大学に入ってからも努力を惜しむことをしませんでした。当時のプラハ大学は、東ヨーロッパの唯一の大学で各国からの優秀な学生が集まってきていました。当時の学問の場では、主に教会公用語と同じラテン語が使われていたため、フスたちチェコ語を話す学生は見下されている面もあったのです。

しかし彼は大学を首席で卒業します。さらに学業が続けることが許され、やがて大学教授になり、ひいては学部長、1409年にはなんとプラハ大学総長に選ばれました。チェコ人でプラハ大の総長になるのは彼が初めてでした。そしてこの頃、彼は市内の教会で説教もしていました。当時の教会の説教と言えば、ラテン語でなされるのが通常でしたが、彼はチェコ語でやさしいお話をしたのです。フスに遡ること50年ほど前にイギリスにジョン・ウィクリフというオックスフォード大の教授で司祭であった人が当時絶対的権力を持っていた教会を批判し、聖書を英語に翻訳して、説教を重視した宗教改革の先駆者でした。フスはこのウィクリフの影響をとても受けています。そして腐敗し、堕落したカトリック教会を強く批判し、聖書に重きを置く信仰の在り方を唱えたのです。

ルターの宗教改革では聖書に記されている神の言を重んじて、救いは人間の行いによって得られるではなく、神の「恵みのみ」によってのみ得られる「信仰義認説」を唱えました。そして、ラテン語聖書を誰にでも解るドイツ語に翻訳しましたが、そこにはウィクリフやフスと言う、一人で闘った先駆者がいたことを忘れてはならないでしょう。

ヤン・フスは一般市民にも分かるような簡単なチェコ語の説教書を次々に著わしていきます。しかしキリスト教の2000年の歴史の中で、現代ほど識字率が高く、自分の母国語に訳された聖書を持っているなどは「つい最近」の話なのです。ですからそれ以上に彼はいろいろなところに赴いて自分の口でメッセージを伝えたのでしょう。けれどもそれは教会当局から異端者としての烙印を押されることになるのでした。

そして1414年、フスの名前を有名にしたコンスタンツ公会議が始まります。彼が43歳の時の話です。なんと会議の始まる前からフスを異端者として火あぶりの刑に処することが決まっていました。

フスの大好きな言葉は「真実」でした。人間は、各人の心の正義を模索し、より神に近い生活を送るべきだと言うのが彼の信条でした。そして権力者や教会の言いなりになるのではなく、個人の信念に基づいて生きることが人間にとって大切なことであるという精神の自由も説いたのです。真実とはそういうことだとフスは信じていました。

彼の最後の言葉は「真実は勝つ」でした。こう言って炎の中にフスは消えて行きました。

彼の遺灰はキリストを裏切った者としてライン川に捨てられました。まるで死んだあとに地獄に行くように、そして「聖遺物」として人々の崇敬の対象とならないようにするためでした。「真実を求めよ。真実に聴け。真実を愛せよ。真実を語れ。真実につけよ。真実を守れ。死に至るまで」というフスの言葉が遺されています。今、チェコ共和国大統領府の旗には「真実は勝つ」というフスの言葉が記されています。

今日の主イエスの言葉にもう一度戻りましょう。14節の後半「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」。ここにすべてが集約されています。私たちが今日から始まる新しい日々のなかで他者へのやさしさをより深く行うことのできるように神に力をいただきましょう。そして神の心に響く者へと変えられていきましょう。