「惜しみなく与える教会へ」コリントII 8:1-9

ヨシュア記24:21-24;コリントの信徒への手紙II 8:1-9

創立25周年記念礼拝の祈り

天地のすべてをお造りになり、いのちの息を吹きいれ、また私たち人間を造り、あなたに向き合いながら生きることをお定めになりました主イエス・キリストの神さま、あなたの聖名を心より賛美いたします。今朝も私たちをここに呼び集めてくださいました。あなたに賛美をささげ、感謝の祭りをささげる群れがこの代々木上原の地に造られております。

私どもの教会は25年の歩みを許されてまいりました。それ以前にもこの教会に脈々と受け継がれている信仰を形作った先達もあなたに生かされて参りました。人々がひしめき、建物が立ち並ぶこの都心にあなたは、主イエス・キリストにある群れを形成してくださいました。この歩みのさなかにどんな時にもあなたが共にいてくださいました。私たちはそれぞれの道を歩んでいましたが、ある時にこの教会へと導かれ、礼拝をささげる一人となりました。それだけを見ても神様、あなたのなさることの不思議さを思います。今、すべてのことに感謝をささげます。

この教会は人間のわざによって出来たのではありません。神様の深いみ心が、長い時を経て実現したのです。多くの人の祈りもありました。たくさんの人が祈りと共にささげものをしてくださいました。今お一人お一人の信仰による行動に感謝するものです。

けれども私たちは今、私たちの不信仰を省みます。また、教会は「共に歩む」「愛を行う」と言いながらもそれを実践できなかった罪を思わずにはおれません。今、み前に深く懺悔をいたします。

今朝、そのような私たちにふたたびみ言葉が与えられました。どうか、私たちに希望を与えてください。このみ言葉によって勇気と力を与えてください。また世界聖餐日にあたり、主の食卓を通して、私たちのうちに主イエスが生きてくださいますように。主と結ばれ、恵みのうちに新たないのちを得て、歩むことができますように。今、ここに来ることを願いつつも叶わない人々を顧みてください。私たちはキリストの名を呼び求めるすべての人を、教会の扉を開いて、私たちの手を伸ばして迎え入れなければなりません。そのために、私たちが心を一つにし、思いを一つにして、堅く結び合うことができますように。どうか、私たちの教会と連なる一人ひとりが一杯の水を差し出すことができ、あなたの救いへと導くことができますように、聖霊を送り励ましてください。

また今日私たちは、世界宣教の日として日本基督教団から世界中に派遣されている宣教師の方々を覚えます。ドイツで宣教のわざに励んでおられる秋葉睦子宣教師をはじめとした教職を、また関係を保っている教会の群を顧みてくださいますように。

主イエス・キリストの聖名によって感謝し、祈り、願います。アーメン。


1997年10月5日。25年前のこの日、日本キリスト教団代々木上原教会の設立式が行われました。この地においてそれぞれに宣教の歴史を刻んできた同じ教団に属する2つの教会、すなわち上原教会(1931年に赤岩榮牧師により設立された旧日本基督教会中原教会が前身)と1979年から市谷集会として始められ、1984年に開設されたみくに伝道所(1886年、日本メソヂスト下谷教会所属駒込伝道所を出発点とする現在の西片町教会から独立)とが合同した日でもあるのです。それに先立って、同年7月13日からこの会堂において礼拝が始められています(司式:陶山義雄牧師、説教:村上伸牧師)。そしてこの日の午後には、教会堂の献堂式と感謝会が持たれています。週報の第1号もこの日の発行になっています。そこには村上伸初代牧師のこのような文章が書かれています。「皆さんとご一緒に、美しい会堂の完成を祝いたいと思います。この会堂が神の栄光のため、そして地域に住む人々のために、よく用いられるように願っています」。あの主イエスがお生まれになった夜に天使達の賛美によって「天に栄光、地には平和」と宣言された言葉が思い起こされるようです。言葉だけではなくて、それを受け継ぐ私たちの教会であるのだという気迫が伝わってきます。教会堂を自分たちのためだけに用いず、神と地域の人とに捧げるという強い決意のもとにこの教会は誕生したのです!

さて、イスラエルに死海があります。ご存知のように大量の塩分が水の中に含まれていますから、たとえ泳げない人でも浮くことができます。死海はヨルダン川からの水が流れ込んでいますが、死海からほかのところへ流出する河川はありません。つまりヨルダン川からどんどん水は入ってきますが、出て行くことがないのです。水は蒸発していきますが、水が流れ出さない湖というのは「どぶ」のようなものです。水は汚れて、当然飲むことはできません。

これは誰かからもらうことばかりを考えて、誰にも与えることをしない人間の姿に似ているのではないかと思います。人間はため池のようではなく、絶えずきれいで新鮮な水が流れるようになっていなければなりません。もらうことばかりを考え、与えようとしない人は、少しずつ澱んで、けがれて行きます。自分からは何一つ流れ出していかないからです。私たちは神の恵みをたくさん受けています。その恵みを溜め込んでおいて使わなければ、腐って行く一方です。反対にどんどん外へ流して行く、他人に与えていく人は、自分自身を清く保つことができるでしょう。私たちに与えられているすべてをこの世の中に流し出して行くのです。私たちに与えられている力、時間、友情、愛情を惜しみなく誰かとわかちあいましょう。うれしいことが起こったら、それを誰かとわかちあいましょう。もし皆さんが何かを与えられたら、それをほかの誰かとわかちあいましょう。今すぐにどんどんそれをして行かなければ私たちの心も身体も澱んでいく一方です。きれいで新鮮な活きた水が私たちの中を流れていけばいくほど、私たちは豊かにされていくのです。

今日の聖書の箇所はパウロがコリントの教会に宛てて書かれた手紙の中に、今やパウロの伝道活動だけでなく、あらゆる慈善、募金に関して模範的になったマケドニア州の諸教会のことが最初に語られています。なぜならパウロはこのときマケドニアの諸教会、私たちが聞いたことのあるフィリピとかテサロニケといった教会のある地方に滞在してこの手紙を書き送ったのです。

2節のところには、「激しい試練と、…極度の貧しさ」がこの教会の人々を襲っていたにもかかわらず、「人に惜しまず施す豊かさとなった」というのです。マケドニア州は農産物や鉱産物で豊かではありましたが、ローマ帝国の支配のもとで、キリスト教徒は貧しい人たちであったのです。迫害されていたから貧しくなっていたということもあるでしょう。にもかかわらず「惜しみない心」が与えられていました。なぜでしょうか? パウロはフィリピの信徒への手紙4章の中でもこう言っています。

フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。(15~17節)

なぜ貧しいマケドニア州のキリスト者たちが惜しみなく献げたのか? それを読み解く言葉は1節に戻りますが、「神の恵み」という言葉にあります。マケドニア州のキリスト者たちが、「与えること」によって受けた神の恵みについて書かれているのです。2節を読むと不思議なことが書いてあります。「その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て」、言い換えれば喜びと苦しみが一緒になってあふれ出ているといったようなものです。マケドニア州のキリスト者たちは今持っているものだけでも分け与えることによって神の恵みがたくさん受けられることを知っていたのです。それが「満ち満ちた喜び」になっていたのです。

具体的には次の3,4節に記されています。

わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、 聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。

「聖なる者たち」というのは、エルサレムでやはり困難な状況にあったキリスト者たちでした。「彼らは力に応じて、また力以上に」とは自分たちの経済力に応じて、またはそれ以上に力を注ぎたいと願ったのでした。自分たちだけでも、たいへんなはずです。けれどもマケドニア州のキリスト者たちが会ったこともないエルサレムの同じキリスト者を援けたいと願ったのです。それはなぜなのかというと、マケドニア州のキリスト者たちも与えることによって、神に、エルサレムの信仰の仲間達につながり続けることができるのだ、エルサレムのキリスト者たちを孤立なんかさせるものか、という意気込みがここ箇所からうかがえるのです。

パウロだって貧しいマケドニア州の人たちから、何かをもらおうなんて思ってもいなかったでしょう。貧しいのだから献金しなかったとしても何も非難されることなどなかったでしょう。しかしマケドニア州の人たちはそういう中からこそ、与えることによってますます豊かにされていくのだということを知っていたのです。つい最近ですが、私はある記事のなかで素敵な言葉を見つけました。それは「危機的な状況にある時にこそ、一歩前に進むのだ」という言葉です。

今日私たちは、マケドニア州のキリスト者たちは、今まで自分たちが会ったこともない、エルサレムにいるキリスト者たちのことを思いやって、与えていることに注目しなければならないでしょう。私たちが、このような視点で教会を見ているでしょうか。私たちは自分たちの教会、自分たちの国と地域というように、自分のことに直接関係する交わりを「交わり」と呼んでいるのではないでしょうか。しかしそれは、今日の聖書の箇所が教えることとは正反対の考え方です。教会は社会の中に建っています。キリストは世界のただ中に立たれておられます。ですから、私たちは自ずと世界に目が向き、その世界にいる困窮している人たちに目を向けなければならないのです。この与えることから始まる交わりが、本当の意味で私たちの心に「満ち満ちた喜び」を与えてくれるのです。

先週の福音(ルカ16章)では賢い管理人が自分の保身のために主人から借金している者たちに減額した証文を渡し直すというたとえ話が取り上げられました。主人からそれをほめられたというのです。神は皆さんの行いをすべてご覧になっています。たとえ誰も気がつかない小さなことであっても神は見ておられます。そして私たちの苦難のときにそれを恵みのかたちで与えてくださいます。皆さんが誰かを助けてあげたこと、微笑みかけたこと、自分を犠牲にしてささげたものなどすべて神の記憶のうちにあります。もしかしたら私たちの心の中にもう一人の自分の声がして、「そんなことをしても無駄だ」というかもしれません。しかし神の力は偉大です。皆さんが与えたものはどんなに小さなものであっても、皆さんのもとに恵みとなって戻ってきます。

今年度の年間聖句は「主イエスから遣わされ、愛によって歩む」(ヨハネ20:21、エフェソ5:2参照)というものです。マケドニア州のキリスト者たちは「常に与える」人々によって形成されている教会です。私たちの教会が与え続ける教会になるならば、私たちが苦難に陥った時、神の助けがあるのは当然のことだと言えるでしょう。私たちはさらに豊かに種を蒔き続けていかなければなりません。私たちは祈ることも大切ですが、祈るだけで何もしないのではなく行動を起こしましょう。種を蒔き続けましょう。私たちが人々に贈ったものはみな神の喜びとなり、神はそれをいつまでも憶えてくださることでしょう。神に喜ばれ、祝福されて生きたいと誰もが思うはずです。そうするために今私たちに与えられている神から与えられているものを自分の懐に溜め込んでいてはなりません。なぜなら与えることは私たちの未来を左右する行動だからです。一人の人を見捨てず、見放さない私たちの行動が花開くとき、神からの惜しみない恵みがもたらされるのです。