「心が折れる?」ルカ18:1−8 中村吉基

創世記32:23−33;ルカによる福音書18:1−8

先週は神学生が私たちの礼拝にきてメッセージを取り次いでくれましたが、私が神学校を卒業して、伝道師としての歩みを始めた時、准允(じゅんいん=説教することを許可される…という意味です)式というのがありまして、司式者はテサロニケの信徒への手紙一5章にある有名なみ言葉「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」を引用して勧めの言葉をくださいました。

私はこの奨励の内容を「よく」憶えています。司式者は「『いつも喜んでいなさい。・・・・・・どんなことにも感謝しなさい』と言われてはたと困ってしまう。私には『いつも喜ぶ』なんてできないからだ。『どんなことにも感謝しなさい』と言うのも同じだ。(ここは以前の協会訳などでは『すべての事について』となっていました)すべての事について感謝などできない、でも2つの言葉の間に「絶えず祈りなさい」という言葉があって良かった。『いつも喜ぶ』こと、『どんなことにも感謝する』ことを祈り願うことが許されているからだ」と語ってくださいました。

余談ですが、なぜ忘れっぽい私が准允の際の司式者のメッセージを「よく」憶えているのかと言えば、次の年に、後輩たちが准允に与った際のメッセージも同じ内容だったからです。そしてその翌年、私が牧師の按手礼を受けた時にも「またまた」同じメッセージだったからです。しかし、私は繰り返し同じ聖書の言葉を語っていただいたことを感謝しています。

皆さんもそうかもしれませんが、私自身も人間ですからやはり喜怒哀楽があります。そういうときに「いつも喜ぶ」こと、「どんなことにも感謝する」ことが出来ないでいます。しかし、「絶えず祈る」ことによって、頑なな自分の心があの大きなろうそくに火をつけるとゆっくりゆっくり溶けていくように少しずつ柔らかな心、目の前の事実、現実を受け容れられる心になっていくのだと希望を持って信じることができるからなのです。

さて、今日の箇所に聴いていきましょう。主イエスは1節「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」と言われたあと、そのたとえ話にさっそく入っていきます。ここに出てくるのは2節「神を畏れず人を人とも思わない」裁判官がいた。とあります。そしてもう一人は夫に先立たれた女性です。

「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」。

皆さんが気を落とす時とはどんな時でしょうか。テレビで戦争や貧困にあえぐ人たちの映像を見た時でしょうか。災害に遭い苦しい思いをする時でしょうか。考えられないような犯罪が起こったなど。

「心が折れる」という言葉をいつの頃からか若い人たちを中心に頻繁に耳にするようになりました。「心が折れる」とは、苦難や逆境のなかで、その人を支えていた支柱のようなものが崩れ落ちてしまうということでしょうか。心の支えを失い、意欲がなくなる、壁にぶつかってくじけることを指す言葉のようです。「もうダメだ」と思った時に心が折れるのでしょうか。人間の本当の底力は危機の時に発揮されるとも言います。

唐突に「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と18章はこう始まりますが、これはその前の17章の終わりにある最期の日、主イエスの再臨の時について記しているからです。神がこの世を裁くときに起こるのは苦難、そして破滅です。それを受けて「気を落とさずに祈りなさい」と主イエスは言っておられます。

自分を守ってくれる者のいない「やもめ」の立場は極めて弱かったのです。そして当時は男が権力を持っていたからです。女性一人ではどんなに心細かったでしょうか。彼女は自分の訴えを裁判官に取り上げてもらおうと、しつこく、諦めないで裁判官のところへ願い出ていたのです。「裁判官のところに来て」(3節)と記されています。繰り返しこのやもめは頼みつづけていたのでしょう。

また5節は裁判官の言葉ですが、「ひっきりなしにやって来て、……さんざんな目に遭わ」していた彼女の姿が目に浮かぶようです。ちなみにこの「さんざんな目に遭わす」という言葉は「眼の下にあざをつける」というものです。あのボクシングでよくある光景と同じですね。これが転じて「迷惑をかける」とか「困らせる」という意味になっています。

このようなしつこさをもって迫られる裁判官にしてみれば、逃げ場所もなかったでしょう。そして、この裁判官も「神を畏れず、人を人とも思わない裁判官」と形容されています。この地域の住民はなんと不幸だったことでしょう。人を助ける、味方になる裁判官がこのような人物であれば、到底、人の役に立つ裁判官だとは思えないからです。

ある時、裁判官はとうとうやもめの訴えを受け入れます。もしかしたら、裁判官の心も折れてしまったのかもしれません。裁判をしてやもめの権利を守ってやりました。

しかし、ここにも見え隠れする裁判官の自分の利益にばかり目が眩んでいる思いが滲み出ています。「彼女のために裁判をしてやろう」と言いますが、実は裁判官がこれ以上の被害を被りたくない一心で「しぶしぶ」裁判を引き受けたとも読むことができるのです。「人を人とも思わない裁判官」ですからやもめに同情して一仕事をしたようには私たちには思えないのではないでしょうか。

主イエスはこのたとえ話で何を弟子たちに、そして今この礼拝でみ言葉に聴いておられる皆さんに伝えたかったのでしょうか。それはやもめの叫びを通して、神に訴える、叫びを上げ続けるようにと促しておられます。そしてただおひとりの神こそが私たちにとっての力の源であると主イエス言うのです。

神はいついかなる時にも、目を離されることなく祈る者の声を静かに聴き、すみやかに私たちの祈りを聴いていてくださいます。たしかに聴いてくださっています。実現するかどうかは神だけが知っています。そうであるからこそ私たちは気を落とさずに、希望を捨てないで常に祈ることが求められています。7節のところで「昼も夜も叫び求める」姿が=「絶えず祈る」こととして描かれています。あの私が伝道者の第一歩を踏み出した時に聴いた言葉と同じです。「絶えず祈りなさい!」と。

主イエスはやもめのような人たちのことを「昼も夜も叫び求めている選ばれた人達」といって招いている。自分の友としてたしかにお招きになっています。そして主は皆さん一人一人をもご自分のもとに招いておられます。悩みを抱え、人に打ち明けられない問題を抱えていても、主が「そこであなたの重荷をおろしなさい」と命じてくださいます。

やもめが裁判官にしたように、私たちが、神に叫びをあげる時、神はその叫びを聴いてくださっています。たとえ大声で叫ばなくても、囁くような小さな声であったとしても主は聴き逃すことはありません。そして私たちには往々にして「神は何もしてくださらない」と思える時があります。けれども、気を落とさずに絶えず祈らなければならない、言い換えればこれは「祈り続けながらも私たちは信頼して主の応えを待たなければなりません。

私たちが壁に当たって、行き詰まっているときに、神が黙っておられると思えるような時にも、神はそのご計画を実現されようとなさいます。神にお委ねすることが大切です。委ねるということは、決して「神にお任せをして、自分は何もしないと言うのとは違います。それはむしろ神を「信頼」することです。だから一切の疑い、迷いを捨てて神に委ねていきましょう。

主イエスは最後にこう言います。

「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(8節)終わりの日に救い主が来られる時にいったいどれだけの人が信仰を持って祈り続けているだろうか。ということです。心が折れてはならない。気を落とさずに、決してあきらめない。そのような信仰が私たちには必要とされているのです。