Shimako F一覧

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「虹と弓」寒河江健

聖書日課では本日の主日礼拝の主題は「保存の契約(ノア)」。ノアが箱舟の後祭壇を築き礼拝すると、神は彼の息子たちを祝福し保存の契約をたてて証拠とし、「雲の中にわたしの虹を置く」とされた。しかし虹というのは日本語訳であり、英語では単にザ ボウ(弓)と記されている。弓とは一般に戦闘に使われる。神さまの目に悪とされることばかり行ってきたために人間を動物もろとも滅ぼした、つまり神の弓がひかれたのである。素晴らしいのは、生き残ったのはノア一族とて普通の人間であり、神さまの前に正しい者ではない。しかしそれを赦し弓をひかないために神は雲の中に弓を置いた。イスラエルの民が住むパレスティナには河川氾濫を起こすような川はない。この話の成立はバビロン捕囚後と考えられている。約50年という長い年月を経て、神殿まで壊されて荒れ果てた故郷エルサレムに帰還した彼らの希望となる神の言葉が必要だったのであろう。普通の人間であるノア一族が繁栄したのは神さまの祝福あってこそ。長い捕囚の後エルサレムに帰還し、二度と高慢にならず謙遜に生きていこうというという思いで物語を紡いだのであろう。今日の新約の箇所「体のともし火は目である 」というイエスの言葉である。私たちの目は雲の中においた弓を見て私たちと交わした永遠の約束を見る。慈しみ深い神を見つめ、謙遜の思いを忘れないように主イエスの謙遜を衣として身にまとってこそイエス・キリストを全身に輝かせて辺りを明るく照らすことができるのであろう。

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降誕前第8主日礼拝 2022/10/30

本日の礼拝 旧約聖書:創世記9:8-17、新約聖書:ルカによる福音書11:33-41説 教:「虹と弓」 寒河江健牧師(四街道教会) 本日の集会 教会学校(Zoom):9:00~「学ぶ心」(ペトロの手紙一1:24-25...

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「神の心に響く人」ルカ18:9–14 中村吉基

今日の箇所は2人の祈りの譬えである。律法をよく学んで掟を確実に実行するファリサイ派と民衆から「罪人」と同様にさげすまれていた徴税人です。しかし模範的なファリサイ派の祈りはその高慢さと惨めさを包み隠さずに神にぶつけるような(カトリックの射祷を想起するような)徴税人の祈りは対照的です。 私達にはいつでも驕り高ぶる者になってしまう危険性がある。年に一度こうして宗教改革を記念して礼拝を捧げ、信仰を原点に戻そうという運動を思い起こしたい。1414年コンスタンツ公会議で火あぶりの刑に処されたヤン・フスは一般市民にも分かるような簡単なチェコ語の説教書を著わし、各人の心の正義を模索しより神に近い生活を送るべきだと言うのが彼の信条であった。処刑後崇敬の対象とならないようにライン川に灰は流されたが、現在のチェコの旗には彼の言葉「真実は勝つ」が記されている。今日の箇所の終わりには「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」とある他者へのやさしさをより深く行うことのできるように神に力をいただき、そして神の心に響く者へと変えられていこう。

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「心が折れる?」ルカ18:1−8 中村吉基

いつからか使われ始めた「心が折れる」という言葉、「もうだめだ」という時に使わるようだが、人間の本当の底力は危機の時に発揮されるとも言われる。今日の箇所は唐突に「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と始まる。その前はイエスの最期と再臨についての話であるからである。そして「気を落とさずに祈りなさい」とおっしゃり、裁判官とひっきりなしにやってくるやもめの譬えにになる。彼女は自分の訴えを裁判官に取り上げてもらおうと、諦めないで裁判官へ願い出ていた。そして人を「神を畏れず人とも思わない裁判官」はとうとうやもめの訴えを受け入れる。この譬えを通してイエスは弟子や私達に神に訴え、叫びを上げ続けるようにと促しておられる。神はいつでも祈りを聴いて下っていて実現するかは神だけが知っている。だから気を落とさず常に祈ることが求められている。往々にして「神は何もしてくださらない」と思える時があるが、気を落とさずに絶えず祈らなければならない、つまり「祈り続けながらも私たちは信頼して主の応えを待たなければならない。今日の最期にイエスは終わりの日に救い主が来られる時にいったいどれだけの人が信仰を持って祈り続けているだろうかを問う。心が折れてはならない、気を落とさず、決してあきらめない信仰が必要である。