Shimako F一覧

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「天の国は誰のものか」マタイ5:1〜12 中村吉基

イエスが山上で神について教え始められた最初の教えとして位置づけられ、教えのすべてが凝縮されているということも可能な今日の箇所「心の貧しい人々は幸いである」から8つの「幸い」は、病などで苦しむ人々を癒した後その群集の前にした説教である。イエスは行動目標を決めたわけではない。当時は「細かい律法を守ることなしに人間は救われない」とされており、その信仰から脱落してしまった人もいた。イエスは古い信仰を終わらせ新しい教えを伝えた。貧しい人、悲しむ人々は「幸いである」とは「素晴らしい知らせ」と表現する人もいる。そして柔和な人々、義に飢え乾く人々、憐れみ深い人々と続く。それぞれ実現が難しいことであるが、主イエスは成し遂げられている。つまり、相手に何が必要かを考え、相手の幸せを願って、自分の力を使う人々のことである。最後の「義のために迫害される人々」については熟慮して読まねばならないが、今日も主イエスは語ってくださっている。今日の箇所では「粘り強く」「頑丈に」行きなさいと教えられている。「天の国はその人たちのものである」というその人たちの中には私達も含まれいてる。この主イエスの約束を信じて「素晴らしい知らせ」を告げられた者たちとして歩んでいきたい。

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「イエスの弟子として」マタイ4:12-23 中村吉基

ガリラヤという「暗闇」とまで言われた辺境の地の漁師であった4人の人生が変わっていく。彼らは弟子になりたいと思っていたわけではなく、イエスの方から「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われてすぐに従っている。自分の生活があるのに、彼らも主イエスに触れて従うことを自分で決断したのかもしれない。イエスの人を見方や価値観というのは私たちとは根本的に違う。人ができないような働きや有名な大学等ではない。ごくありふれた普通の人を弟子にしている。それぞれの賜物を生かし、時々弟子に失望しながらも、弟子たちを用いた。我々は自分のことは自分が知っていると思っているが、人間のいのちを創ってくださった神の方がはるかにご存知である。神は無駄な物はお創りにならない。つまり今生きていることこそ、神が愛してくださっているというしるしなのである。私たちは神に出会って輝く人になる。今日の箇所には「悔い改めよ、天の国は近づいた」ともある。主イエスが4人の漁師たちに近づいていったように、神のほうから招いてくださっている。私たちは神の招きに応えて、主イエスの弟子として歩み出すときに素晴らしい輝きを放つことができる。

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公現後第3主日礼拝 2023/01/22

本日の礼拝 旧約聖書:イザヤ書8:23-9:3 新約聖書:マタイによる福音書4:12-23  説教:「イエスの弟子として」 中村吉基牧師  本日の集会 教会学校:9:00(ティーンズ科第2・第4主日...

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「来なさい、そうすれば分かる」ヨハネ1:35-42 中村吉基

今日の箇所はとても単純に見えるが、とても素晴らしい出来事をたった20行足らずに押し込めてあるので、想像力を掻き立てて向き合わなければならない。ヨハネの「神の小羊」という信仰告白を見、イエスに従った弟子たち2人(ひとりはアンデレ)は従って行き、泊まっていた場所に留った。「来なさい、そうすれば分かる」(39節)というイエスの言葉は滞在場所を見せてたかったのではない。そのご性質やお人柄を通して指さす先の神を示してくださったのである。またこの2人もイエスの宿泊先ではなく、主ご自身を知りたかったのである。2人が主イエスのもとに泊まった時、何があったか定かではないが、アンデレはシモンに「わたしたちはメシア(中略)に出会った」といい、シモンを主イエスのもとに導く。この「泊まった」という言葉はぶどうの木の譬えの「わたしにつながっていなさい」と同じ動詞である。2人にイエスはつながってくださったのである。主イエスを心に宿した人は変えられていき、神の力が顕されていくのである。

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「神の愛する子・心に適う人」マタイ3:13-17 中村吉基

洗礼はとても大きな節目である。イエスがヨハネから洗礼を受けたとき、ヨハネはイエスが洗礼を受けることを思いとどまらせようとするが、イエスは洗礼を受ける。すると、神の霊が降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声が聞こえた。神は罪ある人々と同じように洗礼を受けられた主イエスを喜ばれた。主イエスの洗礼にならって、キリスト教会も洗礼を大切に受け継いできた。自然の中で大きな力を持つ水によって一度生まれ変わり、「私はイエス・キリストと共に歩む」という決意を表すのが洗礼である。洗礼は入学式であって免許を与える授与式のようなものではない。「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は私たちにもむけられている。洗礼によって、心に灯された光は輝き続ける。