代々木上原教会一覧

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「イエスはキリスト」ヨハネ1:1-14 中村吉基

今日の箇所にある「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった」を丁寧に紐解いていくと、天地創造の際にも共におられたようなことになってしまう。なぜだろうか?それは神が2000年前にイエス・キリストを人間にしこの世界にお送りくださったが、キリストはそれよりはるか以前から神のみもとにおられたということをヨハネは伝えている。そしてキリストこそいのちの源、人間を照らす光であるとも記している。続く「光は暗闇の中で」も自然現象の光と闇のことのみならず人生の道のことである。その中で最も明るい光がキリストである。そして「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。肉は人間という意味であるが、ただ肉体のみならずすべてである。それを「受肉」という。人間の罪を許すために神はイエス・キリストとなられて私たちの間に住まわれた。今日はイエスをキリストとして迎えるクリスマス。心からイエスをキリストとしてお迎えしたい。

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「すべての人を照らすまことの光」ルカ2:1-16 中村吉基

今年もクリスマスを迎えました。みなさんはなぜクリスマスを祝うかご存知でしょうか。イエスキリストの誕生日だからです。しかしなぜ彼の誕生を世界中にお祝いするのでしょうか?それはキリストがとても大切なことを教えてくれたからです。この世界で生きているすべての人は神の子だということです。自分もまわりの人も、孤独な人、病人、ホームレス、捕虜・・・もみな神の子であるという福音を知らせるためにお生まれになった。つい自分のことに集中してしまうが、1969年のベトナムで、今のウクライナで平和も求めて祈り続けている人がいる(いた)と忘れないことが大切である。この1年の混迷は来年も続くであろうが、私たちは神と結ばれて生きる特権を得て、神の子として生きることをキリストは教えてくださった。

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「インマヌエル」マタイ1:18-25 中村吉基

引き続きマタイから、今週はヨセフである。いいなずけ(12,3歳頃に約束される)であったがマリアの懐妊のを知り「戸惑い」「考え込」んでしまう。なぜなら当時の律法に反してしまうからである。しかし夢で天使の言葉をききヨセフはマリアを妻として迎える。これは神のご計画であり、普段から神への信頼を篤いマリアとヨセフも選ばれたのである。このヨセフの決断によって、私たちは主イエスをインマヌエルと呼ぶことができる。夢の言葉は、今の私たちにも語られている。主イエスはいつも私たちと共にいてくださる。争いや貧困などで今よりも一人の子どもの小さないのちが誕生するのにしてもさまざまな困難があった。その中でヨセフとマリアに喜んで受け入れられた命を心に刻み感謝と喜びをもって救い主イエスをお迎えしよう。

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「喜び、ひろげよう」マタイ11:2-12 中村吉基

アドヴェント3週目喜びの主日と呼ばれる日を迎え、先週に引き続き洗礼者ヨハネである。既にヘロデ王によって牢にあったヨハネはイエスの活躍を耳にしすぐに弟子を送り、彼が救い主かどうかを確かめる。想像していた強い指導者ではなかったからである。遣わされた弟子に対しイエスはイザヤ書をひいてお答えになった。その中にある「貧しい人」とはたんに経済的に困窮しているだけではない。障害など様々な理由から自由を失っている、しかし神様は救ってくださるという希望を見失わない人である。人生の困難や世界で起こる戦闘などで不安もあるが、ヨハネが「来るべきお方」と呼んだ救い主が友となってくださっている。希望を失なってはならない。ヨハネは自分の使命をわきまえて最後まで忠実に果たした。イエスが「偉大な者」と言った所以である。ヨハネに倣って神の愛を周りに伝えていくことが私達のつとめである。クリスマスを前に一人でも多くの人に神の愛を伝えよう。

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「神に心を向け直す」マタイ3:1-12 中村吉基

今日と来週の礼拝では洗礼者ヨハネの記事が朗読されるが、ヨハネに注目するためではなくヨハネが指差した救い主を見るためである。この箇所はルカ福音書にもあるが、マタイの方が迫ってくるものがある。まず命令形で「悔い改めよ。天の国は近づいた」とある。悔い改めというのは、聖書では心も体も「神に心を向け直す」ということである。そこには人間は神に背を向けて生きてしまうという前提がある。ヨハネは荒れ野で声をきき、悔い改めを説いた。イエスも伝道開始時に同様のことを言っている。神と私たちとが出会うことを導いてくださってるのである。神を感じるのは願いが実現した時ではなく闇の中や荒れ野のような状況である。私達が背を向けてもヨハネが示したように神の使者はまもなくおいでになる。ただ何となしにクリスマスを迎えるのではなく、自分自身の心が本当に神に向かっているのか糾明しながら待降節の一日一日を歩みたい。