「星に導かれて」マタイ2:1-12 中村吉基

イザヤ書11:1−10;マタイによる福音書2:1-12

クリスマスの光の中で今朝2023年の最後の礼拝を迎えました。特にこの朝は、イエス・キリストの公現を祝っています。公現とは、主イエスがイスラエル民族だけの救い主ではなく、世界のすべての人の救い主としてお生まれになったことを意味します。この出来事を、外国人である東方の学者たちの来訪を通して象徴的に描いているのが今日の福音です。

ここに登場する東方から来た占星術の学者たちのことを、他の聖書を読んでみると、博士とか、賢者や王などと訳されていますが、「マゴス」という言葉が使われています。このマゴスとは「ペルシャないしバビロニア地方の祭司兼賢者で、占星術や夢占いなどをもよくした人」(佐藤研)のことです。このマゴスという言葉は英語の「マジック」や「マジシャン」のもとになった言葉ですが、たしかに東方の世界では、それこそ賢者や博士といったような偉い先生であったでしょう。けれども、主イエスがお生まれになったユダヤの国では占いは極刑に値するような罪であり、偶像崇拝者であり、そしてそれを専門に扱っている占い師は忌み嫌われている人々でした。

パウロは使徒言行録13章9節以下でマゴスをにらみつけてこう言っています。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」

このあとの7節のところで、ヘロデ王がマゴスたちを「ひそかに呼び寄せ」たとあります。ユダヤ人たちには占い、まじないの類は固く禁じられていたからです。王といえども、そして王にとってもマゴスたちは秘密裏に呼び寄せなければならないような存在でした。

このように見てみると幼子イエスの前に最初に拝むことを許されたのは、社会的に地位のある博士や学者といったお歴々ではなく、ユダヤの社会の中で認められてもいなかったマゴスたちでありました。

ちなみにこのマタイによる福音書のテーマの一つは、「社会の中で差別されている人びとと主イエスとの出会い」です。いくつかこのマタイ福音書にある主イエスのみ言葉をご紹介してみますと、
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」(9章12節)。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(11章25節)。
「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、・・・・・・神の国に入るだろう」(21章31節)。
病人、幼子のような者(小さくさせられた人々のこと)、徴税人や娼婦に加えてこの占星術の学者たちもいるのです。主イエスは誰彼と区別されることなく、本当にどんな人にも暖かい手を差し伸べられました。
 
新しい年に、夢や希望を思い描く人が多いと思いますが、才能やチャンスに恵まれなくても、あるいは健康が与えられなかったり、自分の人生を生き抜く力がなかったり、またお金がなかったり、私たちの人生はさまざまなことに見舞われます。しかし、そのようなときでも主イエスは私たちのそのような私たちが「持てないもの」(あるいは持たないもの)をすべてご存知で、私たちの重荷や労苦を担うがためにお生まれになったのです。

マタイ11章28節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という主イエスの言葉。さらに8章17節でも主イエスは「わたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った」とあります。これは人間の乾いた心が救いを必要とすることと、それを何としてでも救おうとする神の愛が、学者たちと幼子イエスとの出会いで実現したとも言えるのです。それが世界と主イエスの出会いでもありました。

この幼子イエスを拝みたい、その一心で不思議な星に導かれて、学者たちはやってきました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)。
学者たちがなぜこの「ユダヤ人の王」を拝みたいのか、遠く旅をしてまではるばるやってきたことの理由はこの箇所を読む限りよくわからないのです。しかし星に導かれるままにユダヤまでやってきた学者たちでした。この拝むという言葉を「拝吻(はいふん)」と訳している聖書があります。これはただ拝むだけではない、かなり強い意味があります。「ひざまづく」とか「ひれ伏す」という意味を持ちます。この学者たちが住んでいた東方、ペルシャなどの古代オリエントに見られて、その後も受け継がれてきた仕草です。王や神の前にひざまづく、もしくはひれ伏し、相手の手足や衣の裾、または地に接吻するという行為です。

一部のアジアの国には「五体投地」という拝礼の仕方がありますが、それともまた違います。よくローマ教皇が外国を訪問する際に、飛行機を降り立って地上に接吻するという行為を見ることがありますが、私たちの日本では、なじみのない行為です。それどころか、私たちは神に対してひざまずいたり、ひれ伏したりするということはほとんどしたことがなければ、考えたこともないのではないでしょうか。

カトリック教会や聖公会の司祭や司教(主教)を叙任する時に、司祭や司教(主教)になる人は、聖堂でうつ伏せになって任命を受けるというのを見たことがあります。とても象徴的な仕草だと思います。それだけでなくても、カトリック教会や聖公会の礼拝堂には、会衆が座る椅子のところにひざまずく台(バンコとかニーラーと呼ばれる)がしつらえてあることが多いのです。しかし最近では典礼の簡素化もあり、少なくなってきています。けれども私たちにも神や主イエスにひざまずき、ひれ伏して礼拝する時があってよいと思うのです。私たちの心だけではなく、身体で表すということもとても大切なことだと思うからです。ローマの信徒への手紙14:11でパウロはいくつかの旧約の言葉を引用して、「すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる」と記しています。

さて、今日の箇所を読むときに、もう一つ心に刻んでおきたいことがあります。
それはこの学者たちは、星によって導かれるままにユダヤの国へとやってきました。この時代にも、残されている天文の記録によると何度か彗星が観測されたことや、土星と木星が魚座に接近して明るく輝いたということがあったようです。私は一つ不思議に思うことがあります。それはこの学者たちは、昇る星を見て、これは「ユダヤ人の王(メシア)」としてお生まれになった方を探して旅をしてきたわけですが、その方はユダヤのどこにお生まれになったかはわからなかったのです! 7節に記されてありますが、学者たちは星が現れる時間を確認することはできました。しかし、冒頭の2節のところで「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と人々に訊ねています。ここでメシア降誕された場所を知っているユダヤ人たち、そして降誕の時間を知っている外国人の学者たちとの繋がりを感じ取ることができます。しかしこのかすかなともいうべき両者の補いはヘロデ王によって悪用されてしまうのです。ヘロデも口ではメシアを「わたしも行って拝もう」というのです。しかし、彼の心は正反対のメシアを殺すことにありました(参考:マタイ2:13)。しかし学者たちは王の言う通りにベツレヘムに出かけるとずっと彼らを導いてきた星が、幼子のいるところまでを示して、そこで星の動きは止まったのだと今日の箇所は伝えています。

***

神はこの地上に、そして人間のもとへと救い主イエス・キリストを遣わしてくださいました。そのことによって人間を愛しているのだという神のみ心を知ることができました。そしてその愛は世界中にいるすべての人々に向けられているのです。主イエスはたんに一民族を解放するだけではなく、世界中のあらゆる人々に救いをもたらすためにこの外国人の学者たちにご自分を示されました。
 
今日の箇所で特に私たちが心に留めたい箇所は10節です。

「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。

学者たちは星を見て大喜びしました。最上の喜びです。「ただ喜びに喜んだ」(佐藤訳)のです! 学者たちはその「家」につくや否や、母マリアと一緒にいた幼子をひれ伏して拝んだのです。

私たちも最初に救い主に出会った時がありました。しかし、その時に比べて喜びが薄くなっているかもしれません。ひれ伏すようにして祈っていた時があったかもしれません。けれども毎年、毎年クリスマスの祝いを重ねているたびにその喜びが小さくなってきていないでしょうか。その一つの原因はクリスマスの喜びを自分の中にしまい込んで鍵をかけてしまっているような状態にあるのかもしれません。それを打開する方法は一つだけです。神が救い主をお与えくださったこのクリスマスの事実を周りの人々にも伝えていくことです。黙っていてもいいのです。声にならなくてもいいのです。「星」は静かに学者たちを導きました。私たちの内面に、また振る舞いの中に「神があなたを現実の只中から救い出された」のだと醸し出していくことです。

マザー・テレサ(1910-97)の祈りにこういうものがあります。

主よ、今日一日、
貧しい人や病んでいる人を助けるために、
私の手をお望みでしたら、
今日、私のこの手をお使い下さい。

主よ、今日一日、
友を欲しがる人々を訪れるために、
私の足をお望みでしたら、
今日、私のこの足をお貸しいたします。

主よ、今日一日、
優しい言葉に飢えている人々と語り合うため、
私の声をお望みでしたら、
今日、私のこの声をお使い下さい。

主よ、今日一日、
人は人であるという理由だけで、
どんな人でも愛するために、
私の心をお望みでしたら、
今日、私の心をお貸しいたします。

今日の箇所を通して神は私たちをも、目的の場所まで導いてきてくださるのだという確信と、私たちが普段の生活の中で、他の人々とのかかわりの中で、私たち自身が誰かの「星」になっていきたいと思うのです。ベツレヘムの星が学者たちを幼子イエスのもとに導いたように、私たちもそれにならって、人々を照らすまことの光である主イエス・キリストのもとに人々を導いていくことができますように、ご一緒に新しい2024年の扉を開けましょう。