佐藤研一覧

NO IMAGE

「星に導かれて」マタイ2:1-12 中村吉基

今日は、主イエスが世界のすべての人の救い主としてお生まれになった公現を祝う日である。ここに登場する占星術の学者は「マゴス」と呼ばれる人々、「ペルシャないしバビロニア地方の祭司兼賢者で、占星術や夢占いなどをもよくした人」(佐藤研)である。ユダヤ社会では占いは禁じられていた。ヘロデでさえもひそかに呼び寄せたほどである。マタイのテーマの1つは「社会の中で差別されている人びとと主イエスとの出会い」、ユダヤの社会の中で認められてもいなかったマゴス達が幼子イエスの前に最初に拝むことを許されたのである。主イエスは私たちが「持てないもの」(あるいは持たないもの)をすべてご存知で、私たちの重荷や労苦を担うがためにお生まれになったのだ。学者たちは、星によって導かれるままにユダヤの国へ来たが、どこにお生まれになったかはわからなかったのは不思議である。ただ彼らは星を見て喜びにあふれたとある。そしてユダヤの人々にきいてわかった家に着くや否や幼子をひれ伏して拝んだのである。私たちも救い主に出会った時があったが、その喜びが小さくなってきていないだろうか?それを打開する方法は一つ、神が救い主をお与えくださったこのクリスマスの事実を周りの人々にも伝えていくことである。目的の場所まで導いてきてくださるのだという確信と、私たちが普段の生活の中で、他の人々とのかかわりの中で、私たち自身が誰かの「星」になっていきたいと思いながら、2024年の扉を開けよう。

NO IMAGE

「神の国はあなたたちのところに」マタイ12:22-32中村吉基

口の利けなくなっていた人が主イエスによって癒される奇跡をみて、人々は「この人はダビデの子(待ちに待った救い主)ではないだろうか」と驚く。イザヤ書35章にある神の約束が主イエスによって実現した時でもあった。主イエスの人気が高まり行く先々に群衆は押し寄せるほどとなると、疎ましく思ったり、妬んだり、ストレートに大嫌いだとする人もでてきた。ファリサイ派もその一例である。彼らは奇跡は認めるが、その力を神ではなく悪霊の頭のものであると主張した。そうではないと、イエスを救い主と認め自分たちの権威を捨てなければならないからである。しかしイエスは「サタンがサタンを追い出せば内輪もめではないか」と反論し、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのかとも訊く。ファリサイ派は考えを新しくすることを恐れ神の力を悪霊の力としたが、それは聖霊への冒涜なのであると次の箇所に続くのである。イエス・キリストと私たちの出会いは、私たちの側が変化することが求められる。受難節が始まる灰の水曜日に「ちり」からできた存在であることを確認し、御独り子を与えるほどにこの世を愛し、十字架の死からご復活まで神の栄光を見せてくださった神に、罪をわび、ゆるしていただく。また謙虚さが足りないときにじっくり黙想をして神に方向転換をする力をいただきたい。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」という言葉を信じて歩いて行こう。

NO IMAGE

「備えあれば憂いなし」ルカ12:32-40中村吉基

当時の主イエスの一門は、吹けば飛ぶような小さなグループで社会の中での影響力はほとんどゼロに近かった。主イエスは弟子たちを励まして、そんな彼らに勇気を与えたのが今日の福音の言葉である。どんな状況に置かれても彼らを愛し、彼らのことを忘れない神がおられる。 弟子たちは自分の賜物、時間、力、思いを主イエスのためにささげた。「小さな群れよ、恐れるな」という福音のことばは、今の我々に語られている言葉である。忙しさにかまけて自分のことを優先してしまっていないか。しかし、力・時間・思いをささげて行動することで教会の足腰は鍛えられていく。 最後の晩餐の折に、主イエスは自ら弟子たちの足を洗い、新しい食事(聖餐)を制定された。これは、すべての人が招かれている救いの宴を先取りして祝われるものである。すべての人が神にあってその喜びに与る日まで今日も礼拝をささげている。普段の生活の中で、備えて生きるためであり、大きな希望を信じて生きるためである。

NO IMAGE

「本当の豊かさとは?」ルカ12:13-21 中村吉基

イエスに相談に来た人にイエスは金持ちのたとえ話をする。金持ちが豊作すぎて倉に入りきらないという悩みである。そして彼は今ある倉を壊してさらに大きい倉をたてようと思いつく。しかし神は金持ちに愚か者という。そしてイエスは自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ、と続ける。金持ちの男は非常に自己中心的である。それは彼だけではない。私達とて自分の周りのことだけに執着していないか、苦しみからの脱却を求めて宗教に頼っていないか。苦しい時の神頼みではなく、順調な中で神と共に生き生かされいるのが私達の信仰である。本当の豊かさとは、倉をつくって貯め込むことではなく、喜んでだれかに差し出す中に与えられることであるとイエスは言われいてるが、それは2000年後の我々にも通じる言葉である。

NO IMAGE

「顔をどこに向けるのか」ルカ9:51-62 中村吉基

キリストに従いながら、生活の場においてイエス・キリストのみ言葉にどうすれば生きて行けるのか。今日の箇所でイエスはエルサレムで待ち受けている自分の最期をじっと見据えている。安全な地に留まらず険しい道を突き進むことが神のみ心であると悟り、自分の命だけを守ろうとするのではなく人々の救うことを望んだ。また弟子が彼らを歓迎しない人々を力でねじ伏せる提案をするといさめる。キリスト者は、力ではなく人を赦す心を持たねばならない。 「キリストの道」を歩む時には大きな決断が必要である。今日の箇所では、イエスに従う者がその前に父を葬ることすら許されないという厳しい話がある。この話は人間的な欲望から解放し、神の救いを得させるための道でもある。百年以上前に、大逆の冤罪で捕まった高木顕明という僧がいた。彼は極貧の門徒の中で暮らすうちに、みなともに生きる同じいのちであるという同朋和敬という考えに至る。これは現代を生きるキリスト者の我々にも通じる大切な教えである。聖書では「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」とある。油断してほんの少しの間でも主イエスから目をそらしてしまうと悪の力はつけ入る。私達はどこに顔を向けているかを問うて信仰生活を送っていきたい。